ヨルシカと建築について

最近ヨルシカというバンドにはまっています。

作曲家のn-bunaさんとボーカリストのsuisさんのバンドで、ゆったりした曲からおしゃれな曲、踊れる曲までいろんな曲調がありながら一貫してリズムやメロディが心地いい。散歩にぴったりのアーティストです。

彼らは本名も顔も公表していません。思えばGReeeeNも顔と名前を伏せて活動しているアーティストですが、彼らは歯科医師という本業に支障をきたさないためそうしていたはず。ヨルシカの2人は特にそういった事情はなさそうですが、なぜ個人の情報を伏せるか。

細かな理由はわからないので、あくまで僕の推測ですが、おそらく作品は作者よりも偉く、作者の方が目立つ必要はないと考えているからではないかと思います。

作品には、ある程度の謎が残されている状態が良い。ある作品に対して、「私はかくかくしかじかのような思いを込めました」というように作者が必要以上に説明を加えることは、作品にとって余計な情報、つまりノイズとなってしまうのです。

作品の鑑賞者に対してもそうです。作品を鑑賞するという行為は、人の五感がそれを感じ取り、自分の中で考察や咀嚼をして初めて成立する。だから、作者による過剰な解説や自己アピールはかえって鑑賞者の考える余地を奪ってしまう気がするのです。

その点、建築では、設計者が過剰に自作に関して解説を残しすぎな感じがします。建築は設計者の力だけでは成り立ちません。構造設計者や施工者、クライアント、建築を使う人、楽しむ人。これらすべての人々が存在して初めて建築は成立する。

その点では音楽と建築は似ている気がします。音楽も作曲者、歌う人、演奏する人、編曲する人、プロデュースする人、宣伝する人。誰か1人が欠けても作品は完成しないし、誰か1人が変わったら作品の内容から市場の上での結果まで何もかもが変わってしまう可能性がある。

これはたくさんの人が関わるプロジェクトに限らず、個人的に制作する絵画などもそうです。自分に影響を与えてくれた親や兄弟、教師や友達が今の自分の作品に間接的に携わっているといえます。

つまり、作品はその規模や種類に関わらず、数えきれない人々の手によって作り出される巨大プロジェクトの結果生み出される成果物といえます。その上では制作者としてのいち個人は名目上のリーダーにすぎず、決して個人の出世や自己承認のために作品を利用してはいけないと思うのです。

いつか自分が設計事務所を立ち上げるとして、事務所の名前を決めることになったら、「〇〇建築設計事務所」とはつけず、特定の個人の存在を明示しないチーム名にしたい。ヨルシカのように。

余談ですが、楽器を演奏した経験のない僕は音楽をやっている人を無条件で尊敬し、うらやましく、憧れ、何より応援しています。

いつか僕も楽器を演奏し、作品を作ってみたい。いつかではなく今からでも。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?