アカウントを複数作れば、致命傷を負わない

建築や場所は、昔の自分を思い出させてくれる追憶装置だと感じる時があります。

卒業した中学校や高校を訪れれば、学生時代の自分を思い出し、夏休み明けに久しぶりに学校に行けば大学生としての自分を思い出す。そして実家に帰れば小学生の頃、幼稚園の頃、もっとさかのぼれば赤ん坊の時の自分を思い出す。

常々僕が思っていることですが、人は赤ん坊として生まれ、学校へ通い、社会に出ていく中で、心にいくつものアカウントを作っていきます。いま大学生として日々勉強している自分は「大学生としての自分」というアカウントで生活している。「高校生としての自分」「中学生としての自分」のアカウントは消滅したのではなく、使わなくなっただけ。そして過去に使っていたアカウントの存在はどんどん忘れていき、心の奥底に眠った状態になる。建築を作ることは、誰かのアカウントの倉庫を作ることで、建築を訪れることは、アカウントの存在を思い出す行為と言えるのではないか。

そして数あるアカウントのうち、「小学生としての自分」は自分がもっとも純粋だった時のアカウントです。好きだったこと、嫌いだったこと、得意だったことは全てこのアカウントに詰まっていて、誰の批判も悪意も受けていない正直な自分がそこにはあります。これはどれだけ時間が経っても成長しない。変化もしない。

そして、この考え方に関して現在思うこと。それは誹謗中傷に対する対処の仕方です。

最近、ネットの誹謗中傷により命を経つ芸能人のニュースが多い。元来、人は人の悪口が好きな生き物ですが、人目に立つ仕事をしていればそういった声は少なからず生まれ、自分に降りかかる。

そこで有効だなと思うのが、この

「心のアカウントを複数作る」

という考え方です。つまり、今降りかかっている悪口は全て「〇〇としての自分」に向けられたもの。いわば今使っているアカウントに対するサイバーテロみたいなもので、その際ダメージを受けるのはそのアカウントだけです。

何が言いたいかというと、誰に何を言われても、どんな仕打ちを受けても、

「小学生の時の自分」のアカウントには傷ひとつつかない

ということです。普通の人であれば、人に悪口を言われれば普通に傷つく。それは当たり前のことで、落ち込んで、ダメージを受けるのは全く悪いことじゃない。

大切なのは、致命傷を負わないこと。攻撃を受けているのは、同心円状に分布したアカウントたちの最も末端のアカウントだけです。自分の核となるアカウントには誰にも侵入できない、自分だけが味方になってあげられるものです。

そして、心に余裕がなくなると、自分が今使っているアカウントと「小学生の時の自分」がごっちゃになり、向けられた悪口がまるで自分の人生を全否定している声に聞こえてしまう。

この世から悪口を消すのは不可能。情報を全てシャットアウトするのも不可能だし、全くダメージを受けないのも不可能。であれば、現在の自分と「核の自分」を分けてみるのもありではないでしょうか。

僕はその「核の自分」を思い出させてくれるような建築を、いつか作りたい。建築にはそんな可能性があるように感じます。

最近暑いですが、熱中症に気をつけて、頑張りましょう。

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