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作為を受け付けない体

体力も思考力も回復しない日が続いている。時々霧が晴れるように創作のことを考えることができるようになったが、1つ行動を起こす度に酷く疲れ、思考がフリーズしてしまう。

食べ物の全てに毒が入っているのではないかと思えるくらいに、食後の疲弊ぶりが凄まじい。先日の絶食の成果は期待の半分ほどにとどまり、その後も16時間断食(24時間のうち8時間のみ食事をし、残りの16時間は空腹状態を保つ方法)を毎日続けている。

そんな時でも創作行為をしていないと心も身体も落ち着かないもので、パソコンを開いてCubaseの画面に向かってはみるのだが、最近は「作為」というものをとにかく体が受け付けない。

作為を持つと具合が悪くなる

作為というのは、作品を作るときに作り手が持つ「こうしてやろう、ああしてやろう」「こういうのが好きな人がいるはずだ」というような邪念に近いもの。あえて邪念と言っているのは、私がそういうことをしようとすると一瞬で血の気が引き、息苦しくなって、作業の継続が不可能になるほどのダメージを受けるからだ。

つまり今の自分が創作という行為に向き合おうとすると、作為自体に強烈なペナルティがついてくるようなイメージだ。天誅ってこんな感じなのか?と思う。

そうなると、必然的に「天から与えられたもの」を使う他なくなっている。こう言うと伝わらないことは目に見えているのだが、何か上位の存在に意識の半分以上を明け渡した状態でなければ、パソコンの前に座っていることさえままならないのだ。

作為とそうでないものの境界

ただ、以前は認識することさえ難しかった「作為」と「そうでないもの」の境界は、かなりはっきりと認識できるようになった。ピアノやハープのアルペジオの一音に居心地の悪さを感じ、まるでスワイプでスマホのアプリを消すような感覚でその違和感を取り除く。適当にその音を上や下に動かして、息苦しさが解消されれば成功だ。

そこに理論が介在する余地はないし、下手すると意味すら存在していない。この行為が誰かの指示だとしたら、自分が何をさせられているのか私自身は全く理解していない状態なのだ。

しかし後日出来上がった曲を聴いたときに、「あんなに意識が朦朧としていたのにこんなにはっきりと形として残せるものなのか」と自分でびっくりしたりする。

このさき一生これが続くかもしれないのか……と思うと長生きできる気がまるでしないが、もし本当にずっと続くことなら、新しいフェーズに進んでしまったのだと受け入れて生きていくしかないのだと思っている。

何度もこの話を書こうとして挫折した

実は作為の話をするのに何度も記事を書こうとして挫折した。適切な切り口が見つからなかった。いつも途中で酷く具合が悪くなった(そういう書き方をするな、と言われているみたいに)。

今回は運よく形にできたので、残しておこうと思う。正直今も意識がかなり朦朧としていてこれ以上は読み返すことすらできないのだが、ここまで書けたということは公開しても良いということだと思う。ダメなものだったら途中で必ず具合が悪くなるから。

心も身体もいくら洗ってもすっきりしない日が続いているが、体感ではあと3週間ここから逃げなければきっと抜けられるという気がしている。一日でも早く抜けられるように、今日も早めに寝ることにする。

ここまで読んでくれてありがとう。また。

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