絵を描くということ
2ヶ月ほど前に突然人体を描けるようになりたくなって、3週間ほど絵の練習をしていた。棒ちゃんクロッキーといって、ひたすら人間の写真や3Dの人体モデルの素体を描く練習をしていた。
結果として、その後めっきり絵を描かなくなった。描くのが嫌になった。理由は、寸劇用に準備していたこの絵を描き進めることができなくなったからだ。
ペン入れで失われたもの
この絵を描く過程で何をしたかというと、いわゆる「ペン入れ」というものをした。
線は確かに綺麗になった。顔も整った。でも、そのかわりに絵が全く近しいものではなくなった。単純に作り物っぽいと思った。キャラクターがそこにいるように思えない。
以前から「鉛筆っぽいタッチが好きです」と言われていて、自分もそう思っていたのに、youtubeのイラスト講座をたくさん見てペン入れをしなくてはいけないと思い込んでしまった。
前述したように、ペン入れというのはその労力に反してとてもリターンが少ない。リターンが少ないというか、生気を失うリスクがあまりに高すぎる。いくら理屈として正しい線を引いても、一度失われたキャラクターや物語の実在感は戻ってこない。
そのことにショックを受けて、それがあまりに大きなショックだったもので、完全に筆を置いてしまった。
絵を描くという行為
私にとって「絵を描く」という行為は、もともと目の前にあるものや視界にオーバーラップして見えているものを掘り出したり、写し取ったりすることだった。挫折したこの絵も、もともとはぼんやりとした完成映像が見えていたのだ。しかしそれを「イラストで」描こうとすると、どうにも無理があったらしい。
画面に引いた記号的なペン入れの線が、視界に浮かぶイメージを鋭い爪で引っ掻くように消そうとしてくる。それが私には耐えられなかった。
どのイラスト講座を見ても、「資料を見て描かないと上手くなりません」というようなことを言う。おそらく私はこの言葉を間違って解釈しているのだろうが、こういう話が出てくる度にどこか違和感を覚えていた。
イラストの描き方と絵の描き方は、違う
私が絵を描こうとしたなら、視界に浮かぶイメージを深め、それを掘り起こすという作業になるのだ。一筆入れる度にイメージと齟齬がないことを確認し、感覚からダメだという判定が出たら来た道を戻る。その繰り返しだ。そこで「頭」を使うことはまずない。つまりは、理論など使わない。
だから、私が普段からやっておくべきなのは「素地を鍛える」ことなのだ。いざ浮かんだイメージを取りこぼさないように、参考資料を探さなくても、ある程度のイメージを写し取れるようにすること。そのための絵の練習というものがとても大事なのだ。
結果として、人体のクロッキーは功を奏した。これは体に「美しいものとそのバランス」を覚えさせる練習だったからだ。おかげで以前は不安だった人体を描くのが格段に楽になった。理屈を覚えたのではなく、感覚を習得することができたからだ。
久しぶりにストレスなく絵に没頭できた
この記事のサムネイルになっているのが、今日描いた絵だ。イラストというにはちょっと感じが違っている。イメージが目の前にあって、それを掘り出していく作業だった。普段作曲に没頭している時と似たような感覚だった。
おそらくまだ描き足すと思うが、とりあえず一区切り。今後公開する寸劇のアートワークにしたいと思っている。
なぜ今日書いたような気付きがあったのかについては、また改めて記事を書くことになるかもしれない。安倍吉俊さんのことを調べていて、彼がインタビューで語った内容に救われたのだった。
明日も明後日も、絵を描こうと思える自分でありますように。
ここまで読んでくれてありがとう。
おやすみなさい。
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