「鬼滅の刃」炭治郎のケア労働

※盛大にネタバレを含みます※

うちの子供たち(小一と年少)がYouTubeで鬼滅の刃の二次創作的なのを見まくった結果、本編も見たがり、残酷描写も多いようなのでしぶしぶ(ヤバいのがあったら特に下の子は遠ざけるつもりで)一緒に見始めたら、面白くてむしろ私がハマってしまった。結局、辛かったら見なくてもいいよ離れてもいいよとは言ったが、子供たちにはAmazon Primeでテレビアニメを全部見せてしまったし、私はそれより先に子供たちが寝ている間にテレビアニメを全部と原作の漫画を最後まで読んだ。

少年が大きな目標を持ち、目標を同じくする仲間たちと切磋琢磨して成長し、最後にはラスボスを倒すという大筋はいかにもな週刊少年ジャンプの漫画だし、私はもともと戦いがテーマの漫画もグロいのも好きではなくあまり読んできてなかったのだが、そういう漫画の内容がこれほどまでに「ケアをめぐる物語」であったのは想定外だった。

主人公の炭治郎は、現代日本にたとえるなら一家に現金収入をもたらす賃労働に加えてケア労働(家事と子供の世話)も全部やっている「良心的なお父さん」みたいな人だ。伝統的な男性の役割(賃労働や本編でいうなら鬼と戦って強くなること)を手放したらジャンプのバトルもの漫画のヒーローにはなれない。でもそれだけではなく従来は女性の役割とされていたケア労働や精神的なケアも大事だという視点も持っているのが新しい。私が子供のころはこの手のジャンプのバトルものアニメの主人公といえば、ドラゴンボールの悟空とか北斗の拳のケンシロウとかだった。それが子供たちの世代では炭治郎なのか、そりゃー大変だな、強いだけじゃダメなんだと唸りながら読んだ。

炭治郎は鬼を斬るが(そうしなければさらなる犠牲者が出るから)、鬼にならざるを得なかった境遇には理解を示すのはすでに有名な話だが、もっと注目すべきなのは守るべき一般人や鬼殺隊の仲間へのケアだと思う。例えば、鬼に兄弟を攫われておびえている子供たちに出会い、仲間の善逸のスズメを借りて「手乗りスズメだよ!」と言って気持ちを和ませ心を開く。鬼から物理的に守るのも当然やってその上で気持ちのケアもするのだ。

さらに、鬼殺隊という組織内の裏方の人々を尊重する。蝶屋敷という鬼殺隊のための病院のような施設があり、そこで看護師兼トレーニング担当のような役割をしている女の子たちがいるのだが、彼女らを性的な目で見てしまいドン引きされる善逸と、彼女らの名前を覚えて尊重し、トレーニング上必要な頼みごとをしたりして仲良くなる炭治郎の対比が描かれる。

蝶屋敷を去るとき、炭治郎はお世話になった人たちへの挨拶回りをする(こういうことをするのは同時に入院した同期3人のうち炭治郎だけである)。鬼殺隊に入って戦おうと思っていたのに恐怖で戦えなかったので蝶屋敷で働いているアオイがそのことを炭治郎に話すと「自分の世話をしてくれたアオイさんももう自分の一部だから、その気持ちは俺が戦いの場に持っていく」と答える。

次に同期のカナヲに会う。彼女は何もかもどうでもよいと感じて決められないのでコイントスで物事を決めているという。ここでは明らかにされていないが、幼少時に凄惨な虐待を受けて育った後遺症である。その後蝶屋敷に引き取られ、前述のように蝶屋敷にはケアワーカー的な女の子たちがたくさん働いているのだが、その中で自分はケアは苦手なので戦いたいと考える。ケアされて育っていないので他者へのケアも苦手な女の子として描かれている。彼女はもう少し自分の心の声を聞くべきだろうなと考えた炭治郎は、コインを借りてコイントスをし「表が出たらカナヲは心のままに生きる」と言って表を出す。何それかっこよすぎませんか。こんな見事なメンタルケアする人いる?? これでカナヲは炭治郎を好きになってしまう。炭治郎本人は彼女らに特別な感情はなく、この時点では仲間意識しかなかったと思われるが、天然で2人連続で女の子の気持ちを動かしてしまう炭治郎……おそろしい子! と思いながら読んだ。話はそれるが、炭治郎とカナヲに関してはその後にも良いシーンがあり、ラスボスを倒した後で結ばれるという結末になるのだが、今一番読まれている”少女マンガ”は『鬼滅の刃』というのもわかる。そういう風にも十分読める。

さらに鬼を斬るための刀鍛冶たちのいる場所では、時透無一郎が刀鍛冶の少年に傲慢な要求をしているところに炭治郎が通りかかって止めに入る。これは、現代社会にたとえるなら、何億もの契約をまとめてくる敏腕営業マンが、俺の稼ぎでみんな食えているのだからとバックオフィスの人々に無理難題を言う感じだろうか。ここでも炭治郎は刀鍛冶の少年に好かれて有益な経験ができることになる。

そこまで大きく描かれてはいないが、料理がうまいという描写もある。父親が病気で死んだあと、長兄として一家に現金収入をもたらす炭売りに加えて、母親や禰豆子と協力してではあろうが、料理などの家事やまだ小さい兄弟の世話など家庭内ケア労働をしていたようだ。鬼としての能力が暴走して一般人に襲いかかる禰豆子を必死で「寝かしつけ」するエピソードもある。

そこまで「ケアする人」である炭治郎を支える思想は何か。単行本17巻にある、炭治郎と猗窩座(あかざ)という敵との会話は、何年か前に話題になったYahoo! 知恵袋のQ&Aとほぼ一致している。

猗窩座は人間だった頃の経験から強くなることにこだわりがあり、戦って強いと認めた相手には「お前も鬼にならないか」とやたら勧誘する一方で弱者を嫌い「弱者が淘汰されるのが自然の摂理だ」という。炭治郎は「お前は間違っている。お前も赤ん坊だったときは誰かにケアされていたはずだ。だから成長して強くなったらまた弱いものを守るのが自然の摂理だ」と否定する。

鬼は基本的には鬼殺隊の持っている刀で首を切れば死ぬのだが、猗窩座ふくめ終盤に出てくるラスボスに近い強敵は、首を切っても再生できて死なない。ではどうしたら死ぬのかというと、精神的に負けたとき、人間だった頃の経験も思い出して自分が間違っていたと認めたときに死んでいる。つまり戦ってもいるが炭治郎が猗窩座に論理でも勝ったので殺せたといえる。

猗窩座は、いま映画でも公開されている無限列車編で最初に登場する。このときは鬼殺隊の煉獄杏寿郎に鬼にならないかと勧誘して断られるが、杏寿郎の返事は「人間は有限でありその儚さが美しい。だから人間がよい」という美意識の表現にとどまっている(単行本8巻)。このとき炭治郎はその戦いを目の前で見ているのだが、それ以前に負傷していることもあって手も足も出ない。杏寿郎は致命傷を負って死に、夜が明けて日光を浴びられない猗窩座は逃走する。このときは猗窩座は説得されなかったわけだが「弱肉強食ではなくお互いにケアしあうのが自然の摂理だ」という炭治郎の論理の方がより強かったということだろう。

「鬼滅の刃」全体として、傷ついても復活する身体と無限に近い命を持つ鬼と、有限の命と身体しかない人間が戦うとき、人間側の武器は、家族や鬼殺隊のような目的を同じくする共同体を維持してそれを継承することだというテーマがある。家族や共同体の維持のために必須なのが精神面のケアや料理や育児などの具体的な家事も含むケア労働であることを、鬼殺隊に入る前から父亡き後長兄として家族を支えてきた経験から知っており、だからやっている、というのが炭治郎の思想なのだろう。

なので、「長男だから」と言いながら戦っている炭治郎は家父長制で云々という議論を読んだことがあるが、そうじゃないんだよなー。そういう「男だから」的な部分もまああるんだけど、それにプラスしてケア労働の重要性がこれだけ盛りこまれている戦闘もの少年漫画ってほかにあるんだろうか。私はそんなに読んでないから知らないけど。

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子どもが寝ているあいだに書いています。ときどき考えをまとめて文章化したくなる病気のようです。