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「文化的」であろうとしている

みんなのフォトギャラリーが8月だけで50ものnoteで使われ、総回数にすると400を超え、いまだ読めていないnoteが10以上溜まっている…
(えーん、ごめんなさい!)

400回御礼noteはまた別で紹介したいものがあるのだけれども
ちょうど今日読んでいて気になったので、ちょっと書いてみようと思った。
思いつき文章に近いので、色々雑な部分がありますが。

タイトルでどのイラストを使ったかがわかって、さらに内容が深化しているnoteは大概おもしろい(intrestingの意味で)

お化粧のお話を障害へ移し鏡のようにして考えさせられるnote。
やり方は様々だ、という安直なまとめ方はしたくないんだけど
それ以上はちゃんとnoteを読んで欲しいと思う。

 私は障害者の親という当事者ですが、実は自分自身に対しそういう思いがありました。自分がまず必死に頑張ってこそ世の中に甘えることをやっと許してもらえるんだっていう思いが。

何事も結構「平等」って言われますけど、本当に「平等」が「平等な結果」を生むのでしょうか。
コロナ禍でオンライン授業になった時、子供に授業のための端末を用意できない家に対して教育機関や自治体が用意する…というのを拒んだのは、この「平等」に反するからと聞きました。
特定の家庭だけに端末を用意するのは平等ではない、と言って。
結果、オンラインで勉強できなかった子供だけが勉強が遅れたのは間違いなくそれは「平等な結果」ではありませんでした。

「平等」を作るには足りない部分を補うことが必要ということ。

真に平等な環境や状況を作るには、持たない人へ多く渡す。
それを「公平」と言います。

「不公平だ」とよく言います。
が、それが自分に与えられていないということは「自分が持っている」んです。
だから自分を顧みれば人に乞う必要なんてないんです。

それが「自助」だと思うんです。

そして自分が多く持っていることに気付いて周りに分けることが「共助」

だから本来の意味で「自助」や「共助」は「自己責任」というよりは、ちゃんと自分が何を持っているかを確認しましょうってことなんだと思う。

そして「公助」
じつはそれは「政府」や「社会」から助けられるという意味だけではなくて
たくさん持つ人から集めたものを、持たない人に渡す中間役がいるよって話。

まぁ、別にいまそれを言ってる人と同じ意味で使ってるかどうかは知らんけど
言葉の本来の意味で本来の運用をするならそんなに間違ってないとも思う。
言葉面ばっか追いかける人が多いから混乱するだけだなと悠長に思っています。

そもそも私は
社会とは弱いものをも生き延びることで人類が反映するための戦略である
という考えに感銘を受け、そう思って生きています。
だから「弱い人がたくさん助けられる」ことは「社会として当然のシステム」であるとも思っています。

そして、自分たちで生活できるんだったら別に苦しくても良いじゃん!っていうのも違うと思うようになってきました。

実は私のnoteで一番読まれているのはこちらのnoteなんですが…
(1年以上経って読むと確かによく調べてよく書けていますね。(自画自賛))

このnoteの最後の方に「健康で文化的な最低限度の生活」という憲法の生存権の条文をとりあげています。

この「健康で文化的な最低限度の生活」ってどんな生活だろう?と
とくに新型コロナウイルス感染症の問題が起きて、よく考えるようになりました。

これ抽象的だなって思うんですよね。
「健康で」はわかるにしても「文化的」ってなんだろう?って思うんです。

この憲法が書かれた時代とは違う現代の私たちにとっての「文化的」です。

ほんの数ヶ月考えた今の答えですが、たぶんそれって「心の豊かさ」なんじゃないかと思います。
いわゆる「不要不急」って何でやってたかって「心の豊かさ」のためですよね。
それで「楽しい」をつくることなんだと思ったんです。
その「不要不急」の「楽しい」こそが「文化的」なんじゃないかと。

じゃ、最初にご紹介したnote。

 私は障害者の親という当事者ですが、実は自分自身に対しそういう思いがありました。自分がまず必死に頑張ってこそ世の中に甘えることをやっと許してもらえるんだっていう思いが。

どんな状況下にあっても、「健康で文化的な最低限度の生活」が保障されているんですよ。
だから、足りないことを助けてもらうのも、なにかを楽しむのも、どんな家族がいようが自分にどんな病気や障害があろうが、遠慮なんてすることないんだって思っているんです。

正直、平等に与えることで救われれるのは「持ってる人」なんだと思う。
それをやってるのは「社会」として正しいのかって思う。
でもいま「持ってる人」のほうが少なくなってきているのも事実。

それでも、甘いって言われても理想論だって思われても
私は誰しも持つ「弱い」部分を助けあうことで、「楽しい」を作れる社会になったら良いなって、本気で思う。

平等なんてくそくらえ。って何度も思った。
「同じであるようにする」ことは「排除」でもあるから。

こうやって割と激しめな結論に陥りがちな私。
だからこそ、このnoteにハッとさせられたんです…本当読んで欲しい。

 でも、あまり角張った考え方をせずに、お化粧の自由くらいの気軽さで、

ここから始まる最後の文章。
このくらい穏やかな気持ちで「公平」であることを望めるメンタルになりたいものです。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。