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2週間後の未来(反省文)

日記です。
誰も責めてないし、あくまで責めるべきは着実な歩みでない選択をしてしまったのではないか、という自分です。

自分は個人事業主なので、3月が昨年対比12%の売上だろうが家にいると決めれば家にいることが可能です。
生活と引き換えにして、家にいても飢えるのは自分だけで済む。
でも、そういう状況で自分が社員や家族を抱えていたら?
社員たちが「本当は家にいたいです」と言ってきたら?
家にいさせたいけどそうすると給与が払えないのが見えていたら?
家にいたい人たちが出勤しなければならない事実。
わたしが想像の及ばない世界はたくさんあります。

感情を隠したり抑え込んだりせず、周囲の人に意見や感情を共有するように心がけましょう。

私は自分の今日の話をしようと思います。自分のメンタルケアのために。


わかっていたはずでした。

人を変えることはできない。変えられるのは自分だけだ。

この事実にこれほどまで落胆したことは他になかったかもしれない。
私はどこかでやっぱりまだ人を変えられるような気になっていました。
拡散されることで変わるような、自分で自分を殴ってやりたい。

広告という仕事は、語弊もあるくらいにものすごく単純化すると
「購買行動プロセス」のプロセスごとにアプローチすることで人の購買意欲を促進することを目的にしています。
購買意欲を促進すれば、人はものを買う。
ある意味それは人の行動を変えることでもある、というわけです。

そう考えると、自分で仕事しながら「なんておこがましいんだ」と思うのです。

私は人が行動を変えるのは「知識を得たとき」だと思っています。
広告そして今回新型コロナに関する漫画を描いたのは、まず知識を得ることが重要だと思っていたからです。

でも、人が行動を変えるのは「知恵」がないとできません。
知識を得て「知恵」で正しく使えるようになるのです。

私の漫画を見て多くの人が「わかりやすかった」と評してくれました。
それ自体はものすごくうれしく、だからこそ舞い上がってしまった部分があります。

その「わかりやすい」の評の意味はある人にとっては
ただ「ニュースで言ってることがわかるようになった」だったのかもしれません。

人は結局「読みたいように読む」のです。
自分のことだと思いたくない人が読みたいように読んだら、結局「画面の向こうのおはなし」でしかないんですよね。
それでは、知識を得ても知識を使えないのです。

このひどい落胆は、実は友人たちが先週末飲食を伴う集まりを開いてSNSで発信していたところから始まっています。
ただこの友人たちは都内に住んでいるわけではありません。
東京は外出自粛だけど「自分たちには関係ない」と思ってるんだと知ったことで
自分や自分の描いたものに失望し、ものすごく悲しい気持ちになりました。

2つめの漫画に描きました。

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私たちは2週間前の現実しか見ることができません。
東京の自粛要請をするほどのデータが出てから自粛要請をした2週の間には三連休がありました。

三連休で都内からどれだけの人が移動したでしょう?どれだけの人が都内と往復したでしょう?都内からどれだけ遠くに移動したでしょう?
人が移動するということは「イコール」ウイルスが移動した可能性があるということです。
ウイルスは自分で移動できません。人が必ず移動させているんです。

三連休の結果は今週末に見えます。
そのとき初めて東京からどこへどれだけ移動されたか見えてきます。
東京を日本すべてみたいに扱うなというのはわかります。
でも三連休にどれだけ東京での人の出入りが多かったかを考えてしまう。

だから東京のこの感染拡大を、ひとごとにしてほしくなかった。

でも伝わらなかった。
それを伝えられなかった自分がひどく悲しくて仕方なかったんです。

そう思いながらも、私は友人たちを責めることができません。
理由は「正常性バイアス」にあります。

人間が予期しない事態に対峙したとき、「ありえない」という先入観や偏見(バイアス)が働き、物事を正常の範囲だと自動的に認識する心の働き(メカニズム)を指します。

わたしも最初この考え方を今回に結び付けられていませんでしたが
ある方からツイッターのリプライで、いろんな人が「自分には関係ない」と思いたいんだって知りました。

ニューヨークやイギリス、様々な地域にいる友人が「こんなことになるなんて」と「決して人ごとではない」と警鐘を鳴らしています。

非常事態の際に「正常性バイアス」に脳を支配されないよう、本当に危険なのか、何をしたらいいかを見極める判断力を養っておきましょう。

つまり私の表現するところの「知恵」とはそういう判断力に基づく落ち着いた行動なのです。
そのためには日頃の訓練が必要です。
訓練もできない新ウイルス感染など判断力がついていようはずもない。

私も含めみんなどこかで「正常性バイアス」を使い自分を保っているのでしょう。

今日、著名人が亡くなって、ことの重大性の認識する方々を多く見ました。
それで今まで募ってきていた自分の発信に対する「伝わらない」実感が
「ここまで伝わっていないのか」に変わったとき、本当に本当に自分に失望するばかりでした。

しかし専門家会議の会見で繰り返し発信してきた先生方の、もっとずっと焦り無力感を抱いていたであろうことは、想像を絶します。

私だってここまで理解しておきながら、昨日配信ライブにウキウキし、盛り上がっていました。
それは全く危険ではない、とは言えないのです。
ずっと「これは関係ないと思いたかったのではないか」と自分に問いています。

人の行動は変えられないと知っていたはずなのに、それを期待した自分がいけなかったのだ、という失望。


ここまで考えて、家から数分の銀行からの帰り道、スマホを落としたことに気づきました。
このことが自分を我に返らせました。
(20年以上携帯電話かスマホ持ってて落としたのは、これ以前に1度だけなので、私にとって相当の異常事態なんです)
いや、それでもまだだった。
手軽に結果が手に入るわけがない「行動変容」に対して、手軽に結果が手に入る行動を私自身がしてしまいます。

つまり、必要でも緊急でもなく「スーパーで買い物」をしようとしました。
結果が出ないことに焦りイライラして落胆し、気持ちの穴埋めに行ったんです。
スーパーにいる人々の自分と同じその「結果を手に入れたい」空気を感じて
「自分は何をしているんだ」と、本当に本当に我に返りました。

結果、自分を落ち着かせるためだけに、大好物の「餃子」だけ買ってきました。

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スーパーのレジの方々も余裕がないのを実感しました。
普段はこちらが「ありがとう」と声をかければ反応があるのに、反応できない。
餃子一個なのに一番大きなレジ袋を渡されました。
それはおそらく気持ちに余裕がないので「選択する」ということを無意識に避けているのだと思います。

客観的にそういうことが見えた時、自分がいかに朝から焦っていたか
ひどく反省しました。

「今日データで見えること」は「今日のできごと」ではありません。
「今日データで見えること」は「2週間前に決まったこと」です。
「今日自粛した結果」は「今日明日データで見えること」ではありません。
「今日自粛した結果」は「2週間後に見れること」です。

それすら私は知識の入り口に立った時に「往復1ヶ月の時間差」として知っていたのに、実感していなかった。
実感しないことで自分も考え方を変えることが難しかった。

三連休の解禁ムードが何を引き起こしたかはまだ見えていない。
この事実に私がひどく恐怖しています。

恐怖は冷静な判断力を失わせますね。

発信したこと自体は何ら悔いていないです。
ただ自分を過信し、伝わるんだ!変わってもらうんだ!なんておこがましいことを考えていたのであろう自分を悔いています。

とにかく。事実を受け止めるべく、落ち着け、私。
人を変えることはできない。変われるのは自分だけだ。

そしてわたしが想像の及ばない世界はたくさんあります。

2週間後を変えることを今、私だけでもできればいい。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。