ジャムの煮詰め方、読書

以前、ひとの心の有様、また自分の心の風景についてあれこれ書いた。

(スクリーンショットは当該エントリ「心のかたち」にリンク)
今読み返すと、村上春樹とユングに影響されすぎな見立てではある。まあ仕方あるまい。
人は多面体で、平野啓一郎氏が提唱する「分人主義」、心は切り分けたケーキのように構成されているという捉え方は言い得て妙である。しかし私は、切り分ける前のホールの内側、真ん中あたりにはジャムのようなものがぎゅっと詰まっていると思っている。つまり、心の中心には全ての「私」に影響を与える根やコアがあるはずだと。それは己をおのれたらしめる何かであり、過去から未来へ自分を連綿とつなぐものでもある。もちろん環境や成長などで変化はあるだろうけど。
もっと厳密に言えば、「ジャムがあると思うことで己を保てている」のかもしれない。

ジャムの部分、自分しか知らない自分は、誰にとっても最も大切な場所であり、誰にも犯すことは出来ない。逆説的に言えば、そこが崩れてしまうのが「心が壊れる」という状態なのであろう。
家族や恋人、親友であれば何となくジャムの味を想像出来る。しかし私は「どんな味?」と指を突っ込むことはしたくない。側で「いい匂いだねえ」とか言ってるくらいが丁度いいと思っている。濃く煮詰めた甘く苦い流体は、触ると双方に変化が起きるから。意図せず雑菌を入れてしまって不味くするのはいやだし、指についた匂いがなかなか取れないのも少し重い。つまりは弱いんでしょうね。
そんなこんなで、人にざくざく踏み込むよりは、少し離れたところからじっと見ていた方が楽しいと感じる。だから書くのが好きなのだろうな。いや、ものを書くからそういうスタンスになったのかもしれないが。

ところで最近、わたしのジャムに数度触れられる、という経験があった。すごく辛辣な言い方をすると、「丸腰の自分だけが胸を開き、相手は安全地帯から見物」みたいな出来事があったのだ。その非対称でいびつな状況はわたしを苦しめた。端的に言えば予想以上に痛かった。まあ、ツボ押しのような心地よい痛さでもあったのだが、ジャムが減った分を補充する作業、すなわち心の再構成が結構大変だった。いい歳して情けないけどしょうがない。
表面的な社交は年の功で何とでもなるが、オープンマインドと真逆の、今更変わる気もしないこの性格は好きだけどまあまあ面倒くさいなと改めて思う。

芯をかき回されたと感じれば傷つく。そんな時、基本的には「じぶんに対する愛情」が大切だ。それが周りへの愛情や感謝にもつながるから。
ジャムを煮詰める作業をちゃんとやるということ。細かく火加減を見たり、アクを取ったりかき混ぜたりしながら、丁度良い味加減を保つ。埃が入ったらその都度取り除く。細かい成功、或いは危機を見逃さない。そうやって丁寧に整え続けることだけが、自分を救うのだと思う。
支えるのは絶え間ない自己対峙と勉強だ。手間はかかるけど、きっちり取り組んでいかねばならない。
考え抜いたので、もし同じ事が起きても、今度は潰れないと思う。分かんないけどさ。
周りを切り捨てるのは簡単だ。短絡に走れば自分を貶める。わたしは弱く愚かしいけど、「こんな俺も悪くない」と思える程度の自分を保っていたいのだよ。がんばります。

気分転換に読書をしています。

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「女として生きること」について。後半に登場する善百合子という人物をほんとうに好きになってしまった。彼女の凛とした、つよくも脆い性質に惚れた。

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今は表題作を読んでいるところ。柔らかい筆致が心地よい。町屋さんやっぱり大好きです。新潮に掲載された「ショパンゾンビ・コンテスタント」、早く単行本化されないかな。

読書や勉強を糧に、思考を更に深めていきたい。いや、深めなくてはならない。前に進むためにも。

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