心のかたち

連休後半。長い休みの終わりは寂しい。普段と違う時間の過ごし方をすると心に風が入る。その心地よさに身を委ねるうち、せまりくる日常に少しだけ怯えてしまう。もう少しだけこのままでいたい。働き始めればいつものペースにほっとするのは分かっているが、それでも。

先月末にずっと考えていたことを備忘録として書きつけてみる。

人生の質を上げるには、やはり「己を知る」ことが寛容だ。それは最も知的でワンダーで、困難な作業である。
よく「自分のことは自分が一番よく見えない」と言われる。例えば他人を評するのは、その人への距離があればあるほど容易だ。判断材料が少なければ、それだけで考えるしかないから。しかし「自分」はその真逆に位置するため難しい。己への眼差しにはどうしても欲目が入り甘くなりがちだ。或いは過剰な卑下でプライドを保ちたくなることもある。
また、どんな人間も多面性を持っており、表出具合は環境やコンディションによって揺らぐ。加齢による変化もある。つまり、「こんなだったはず」と思っていた自分がすっかりいなくなり、過去を評しているだけというのは結構よくある。
その時の心性を過不足なくぴたりと捉えるのは本当に難しい。

心は様々なものに喩えられる。動物や建物に置き換えたり、森や海、街などの風景に見立てたり。自分は後者が好きだ。「秘密」が森の奥や深海の底にあるとか、街の形が多面性の比喩になっているなど。

最近、ようやく自分の心の形が見えて来たような気がしている。
表面は手入れされた花壇の並ぶ広場だ。入り口付近は公園のような雰囲気をかもし出し、人を気さくに受け入れる。ささやかな広場は誰でもどうぞ、な場として解放している。
しかしそこを通り抜け一歩入ると、樹海が広がる。獣道はあるのだが、なかなか奥には入れない。別に入れたくない訳じゃないけど、まあまあ面倒な森だと思う。怒りや弱さを晒さない為の、セコム的な部分でもある。
くねる小道を1週間程歩いていくと、真ん中に静かな庭と小さな古城がある。

(写真は自分の過去ブログ「静寂を待ちながら」にリンク)
一人でいる時の自分は大体ここにいて、ここのベンチで思索をしたり、サンドウィッチを摘んだりしている。古城の中でのんびりしている時もある。
小さい空間の上空は丸く切り取られていて、夜は星が見える。
ざっくり言うと、ドーナツ状の樹海(わずかな外側ぐるりは公園っぽい)という感じである。

子供の時、一番好きな場所は本棚と壁の間のせまーい空間だった。挟まりながら本を読んだり、窓の外を眺めたり、ぼーっと考え事をしたりするのが至福だった。
それを拡げて展開すると、上記のような世界観になるんだと思う。ユングっぽい分析ですよね、我ながら。あと海より山派なのも関係あると思われる。ちなみに親しくなる人は「森」タイプの人が多い。意識してはいないが結果的にそうなる。「森」の人って根がピュアなので、一緒にいると心が洗われるのだ。
余談ですが、海っぽい人ってそんなにいない気がする。海の持つ大らかさと「私の中で泳ぎなさい」的な魅力、魔力って好きなんだけどな。空っぽい人も好きだ。基本的には心が開けているけど、時々何かを滲み出して雨を降らせる、的な。
街っぽいとか、崖や砂漠っぽい人は結構いるように思う。勝手な妄想ですけど。

私の場合、「樹海」と「庭」は、幼少期からあるベースだ。「広場」は樹海を剥き出しにするのはやだな、という思いから、成長と共に作られた。
元々ある樹海も、加齢とともに手入れは行き届いてきている。獣道も整備している。「庭」は、自分を粗末に扱っているときは荒れ放題だが、己と向き合って凛と生きようとすれば自然に整う。大体そんな感じだ。

執筆はいつでも自分との闘いだ。技術を磨くのも大事だが、こういう根っこの部分を常に捉えていないと、私の場合、薄っぺらなものしか書けなくなってしまう。それは嫌なので仕方なく棚卸しに励むのだ。「大事なことは大概面倒くさいんだよ」って宮崎駿監督も言っていたしな。

昔からこういう妄想が本当に好きなんです。「この人、何を言っているんでしょう」というご意見は甘んじて受け止めます。最近はリアリティものしか書いてないけど、いつか神統記の「空と大地がキスをして夜が生まれた」的な、豪快なファンタジーが書けたら嬉しい。

サポートいただけたら泣いて喜び、創作活動に活用します。