創作「うわきものたち」

前に書いたものが偶々出てきたので、加筆修正してupします。
掌編で、多分30枚に満たないくらいの作品です。似た者親子のお話。 (酒は出てきません)

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うわきものたち

視界を遮ったのは、カサブランカの花束だった。持ち手の顔が見えぬほど、こんもりとした白い星々。そしてむせかえるほどの芳香。

夕方の地下街は蒸していた。よどんだ水槽の中を、制服を着崩した高校生の群れや、こってり化粧をした若い女の子、携帯で話すスーツの男などが無秩序に行き交っていた。

雑踏の中で、それはものすごく目立った。店の名がプリントされた茶の紙と、上をパチンと止めたビニールの中の、白と緑のコントラスト。まるで金の額縁に包まれた宗教画のようだ。
場に不釣り合いなほどの、圧倒的な存在感。

約束に遅れないように、急ぎ足で歩いていた俺は、突然目の前に現れた純白にのけぞり、一瞬立ち止まった。チェーンの花屋からいきなり現れた女神。
それは退勤時分のサラリーマンやOLから、好奇の眼差しを注がれていた。遠巻きに、しかし無遠慮に見つめる人々の流れはぐねっと曲がり、花を中心にした半円形の空間を作った。

俺は、その堂々たる体躯を見つめた。でかいな、幾らくらいするんだろう。ってかあれ、何処に飾るんだ?セレブなマダムの家だろうか。いや、飲み屋とか、店に飾るって線もあるか。下卑た考えが一瞬で巡る。進路を妨げられた不意もあり、つい小さく舌打ちをした。

次に見えたのは、キャリーバッグだ。
黒いプラスチック、機内持ち込み可サイズのありふれた形。右下の角がべこりと凹んでいた。表面の左側には、細長いステッカーが貼られている。赤地に白字抜きで記された横文字は、『my sweet , sweet home』。
あれっと思う。
ごろごろ引きずられる長方形と、その文字列には見覚えがあった。俺は立ち止まる。
大荷物の塊に続いて、店内から、ありがとうごさいましたあ、と明るい声が追いかけてきた。緑のエプロンの女は、正方形の紙包みを胸の辺りに掲げた。
「これ、ありがとうございました」
「いやいや、また頼むね」
「はい、宇治さま。またお待ちしております」

ぺこりと頭をさげる女、軽く会釈する背。それを見て、疑念は確信に変わった。大股で遠ざかる男を、だめ押しで観察する。あのちんちくりん、「私は公務員です」と公言しているようなグレーのスーツ、きっちり撫でつけられた七三分け。間違いない。

俺はその場を動けなくなった。

一昨日から大阪に出張している父は、確か土曜に帰る予定だった。変更があれば連絡を入れるはずだ。しかし今朝、母は何も言っていなかった。
あんな花を抱えて、何故今、この人はこの街にいるのだろうか。理由を考えようとしたが、うまく頭がはたらかなかった。

ふと、父がこちらを振り返った。
「祐哉?」 声は聞こえなかったが、口は確かにそう動いた。
眼鏡の奥の目が大きく見開く。
瞬間、左の肩が、まるで花をかばうように後ろに下がった。そのせいで上半身と下半身は奇妙にねじれ、体は前を向き、顔だけがこちらに突き出るという、おかしな体勢になった。や、の形のまま固まった口、眉間の皺、斜めになった眼鏡の奥の、小さな瞳。顔にでかでかと「逡巡」の文字が浮かんでいる。
こんな顔、初めて見た。
うまく表情を作れないまま、俺は灰色の男を見つめ返した。

父は、二、三度瞬きしてから、無理やり口角を上げて、笑顔を作った。ぐるっとキャリーバックを回旋させて向きを変え、こちらに近づいてくる。
目の前まで来た大荷物の男に、俺は仕方なくおかえりなさい、と言った。普段の癖でお辞儀までつけて。彼は、ただいま、と妙に滑舌よく応えた。

「でかい花だね」
父は黙って頷いた。それから急に早口で喋り出した。「学校の帰りか?」
「いや、もう夏休みだから」
「じゃあバイトか?」「今日は休み」
父はふうと息を吐いた。そして俺の右手にぶら下がる、さっき美紀から貰った小さな紙袋を指差した。「買い物でもしてたのか?」
「ううん。ちょっと、人に会ってて」
「友達か?」
「うん、まあ」
「彼女か?」
「いや、まあ、そんな感じ」
「そうか。まあ祐哉も年頃だもんな。そうか」
矢継ぎ早の質問。何だか責められているみたいな気持ちになった。理不尽さにむっとし、口を尖らせる。
父はそっと目を伏せた。
それから「行くか」と呟くと、くるりときびすを返し、地下鉄の駅の方へ向かった。
取りあえず、ついて行くことにした。

歩き出すと、父は一転、無言になった。めまぐるしく変わる態度。怪しい、怪しすぎる、どう考えても。切り込みたい衝動が湧く。その花は?出張は?これから何処へ?しかし、言葉がうまく出てこなかった。奥歯を噛みしめる。

気まずい沈黙。

ちらりと右を眺める。父は花束の持ち方がうまかった。肘にリボンで結ばれた根本の部分を乗せ、腕をくるりと巻きつけて、茎と花の境目辺りに柔らかく掌を添え、その肢体を上手にホールドしている。花はその中で、のびのびと体を揺すり、時折甘えるように胸へもたれかかった。すると父はそっと肩を突き出し、元の位置に戻した。それはどこか甘い光景だった。カップルが睦み合っているみたいな。
地味すぎる父がそれを持つ姿は、意外なことに結構様になっていた。

艶っぽい動きに、強烈な違和感を覚える。

俺の知る父。それは予定厳守、四角四面のパワハラ男だ。正論しか言わない退屈な男。毎朝1分たりともずれず、7時12分に出勤する男。正確無比な行動だけが取り柄の男。

父の歩調は徐々に遅くなった。ん?と目をやると、俺を横目でチラチラ観察していた。赤茶に染めた髪、ceroのバンドTシャツ、安物の時計と奮発したビンテージジーンズ、レザースニーカー。何だよ、と思う。視線を振り払いたくて、ぶっきらぼうに聞いた。
「何、この服、変?」
「いや、お父さんにはよく分からんよ、若い人の格好は」
「あっそう」
「でも、似合ってるんじゃないか?」
ありがとう、と投げやりに返事をする。

俺は間合いを図っていた。剣を抜く前の騎士みたいに緊張する。
聞きたい。でも、どう切り込んでもかわされる気がする。いや、逆に問い詰めて情けない振る舞いをされた方が、動揺するのかもしれない。
どうすれば良いのか全く分からなかった。

ふと、花束を押さえている左手が目に入った。
ごつい関節、豪快に血管の浮いた手の甲。無意識だろう、ピアノを弾くみたいに小指からパラパラッと、繰り返し指を動かしていた。あやすみたいに。
瞬間、背筋が凍った。

さっき別れたばかりの美紀が脳裏をよぎる。

帰り際、何時ものようにホームまで送り、二人で電車を待っていた。柱にもたれ、姦しく喋る美紀の胸の辺りを見ながら生返事をしていると、彼女は急に口を結び、こちらをじとっと睨んだ。
「どうした?」
「ゆうくん」「だから、何?」
美紀は突然抱きついてきた。うわっと思う。面倒くせえ。でもまあ、しょうがないか。女とは得てしてそういうものだ。

何だよ?と言いながら俺は右手を背中に、左手を後頭部に回した。そして背中の手を肩の前へずらし、優しく体を離そうとした。
が、美紀はぴたりと張り付いたまま動かなかった。「私、ゆうくんだけを見てるよ。もう、揺らがないよ」
「まだそんなこと言ってるの?」
左手で柔らかく美紀の頭を包む。
「忘れたって言ってるだろ。本気じゃなかったんだろ」
「でも…」思い切って、ぐっと抱き寄せる。
「もう、気にしてないから。俺こそごめんな。一緒にいるのに寂しい思いさせちゃって」
美紀は胸の中で頭を振った。
違うの、私が、やっぱり、としゃくり上げる。男子高校生の集団が、俺たちをじろじろ見ながら通り過ぎる。恥ずかしさをこらえ、よしよし、としばらくそのままの姿勢を保った。

幸いにして美紀は、割とすぐに顔を上げてくれた。
そして、俺の左手を指差した。
「ゆうくんの、この手、好きなの」
ん?と目を合わせると、美紀は目を赤くしながらもっていた。
「トトトンって、してくれるでしょう。これ、すっごく安心するの」

そうと答え、小指から順にまた、殊更ゆっくりと指を動かす。二度、三度。

動きを止めると、美紀は目を閉じてふふっと笑い、身体を離した。
「わがままして、ごめんね」
「いいよ、嬉しいから」 俺はまた頭に手をやり、トトトンと指を動かした。

理由は分かっていた。
俺は今、明日美のことを考えていたのだ。これから会う女の抱き方について、目の前にいる女と比較しながら。
悪いとは思っていなかった。美紀だって同じことしていたんだ。お互い様だ。
でも、そうは問屋が卸さないだろう。女の勘は侮るべからずだ。疑惑はすぐ晴らす。必要があれば謝る。甘えさせる。
後回しにしないマメさだけが、危うい橋を渡る己の身を守るのだ。

電車がやかましくホームに入ってきた。

美紀はまたね、と手を振って乗り込むと、寂しい笑顔でドアの前に立ち、こちらをじっと見つめた。俺は口角を上げ、満面の笑みを作る。声を出さずに、またね、と口だけ動かした。
美紀は腫れた目で、嬉しそうにうなずいた。
平べったい声のアナウンスと共にプシュウとドアが閉まり、発車する。

見えなくなったところで、大きく息を吐いた。

「どうした?」
父の声に我に返る。無意識に嘆息していたらしい。
とっさに誤魔化した。
「いや、すごい匂いだと思って」
「量の割には大したことないけどな。咲いてないのも多いから」
そう、と適当に頷いた。

今隣にいる、野暮な中年。
さっきまでそう思っていた男は、あの時の俺と全く同じ速度で、花を慈しんでいる。
ぞっとした。無意識と自意識をミックスさせたあの安っぽい手練手管、しょうもない技は、もしかすると、この人から受け継がれたものなのだろうか。

改札を示す看板が目に入った辺りで、父は急に立ち止まった。
「真っ直ぐ帰るのか?」
「うん。いや…、これからちょっと寄るとこあるけど」
「どっち方面だ?地下鉄か?」
自宅と反対方向の、ある駅名を告げると、えっと言い、口を結ぶ。
しかしすぐそうか、と穏やかに話し出した。
「一緒の方向だな。お父さん、やっぱりタクシーで行くから近くまで送ってやるよ」
「いや、いいよ、待ち合わせの時間にはまだ早いし」俺は嘘をつき、逃げようとした。
「駅前のドトールで時間潰せば良いだろう。祐哉、車までこれ、持ちなさい」
返事をする前に父は、花束をどんと渡してきた。仰け反りながら受け取る。
予想よりも、大分重かった。ラッピング越しに伝わる、しっとりした、まだ命ある植物の感触。存在感。赤ちゃんみたい、と思う。あんまり抱いた事ないけど。
そして芳香。毛穴や鼻を無遠慮に殴る、強烈な香り。思わず顔をしかめた。匂いってすごい。酔わせるみたいに思考を奪っていく。
ぼおっとした頭で思った。お父さん、あの駅にドトールがあるの知ってるんだ。土地勘あるんだな。

俺たちは方向転換し、ホーム手前の、左端のエスカレータをのぼって地上に出た。

……

駅前のロータリーには、ぬるい南風がゆったり舞っていた。ビルや看板の隙間から、オレンジの夕焼けがかすかに見える。その上には、斜めにちぎれた雲が途切れ途切れに漂っていたが、雲のすぐ上はもう夜で、紺碧の空がきりりと広がっていた。なんだか不気味な夕景だった。

父は空には目もくれず、タクシー乗り場まで真っ直ぐ進み、荷物をトランクに預け、先に乗り込んだ。続いて俺が、花束を運転手に渡そうとすると、首を伸ばして、それは車内に持ち込みなさい、と言った。
高圧的な命令口調。
少しホッとしている自分がいた。いつもの父だ。己で決めたルールを絶対とし、周囲へも押し付ける男。俺は無言でうなずき、包みをガサガサ言わせながら車に乗った。

父が行き先の駅名を告げると、タクシーは滑らかに発車した。一路北に向かう。

車内には、クーラーの過剰な冷気と、控えめな野球中継のラジオが流れていた。豪華な花ですねえ、プレゼントか何かですか、と聞く運転手に、父は、いえ、邪魔ですいませんね、と論点をずらして応じる。

ふと、花屋の店員のことを思い出した。
「ねえ、お父さん」
父は、ん?、とこちらを見ずに短く答えた。
「さっき、お店で何を渡してたの?」
怪訝な顔で見る父に、店員さんにさ、何か紙袋みたいのあげてたよね、と言うと、表情が曇った。
しばし口ごもってから、ボソッと呟いた。
「ハンドクリーム」「え?」
思わず眉間に皺が寄る。何だ、そのプレゼントは。
「花屋って、水仕事で手が荒れるんだよ」
それだけ言って、黙った。
「優しいね」
「気遣いだ。あとテクニックだ」
俺は、ショックを受けた。
そういう細やかさ、俺が実戦の中で、必死で身につけたやつだ。そう思っていたのに。
「テクニック?」
「余計に、入れてくれたりするから」
父は花束を指差した。
「こんな高そうなのも?」
「まだ蕾で持ちそうなやつとか、いいところを選んでくれるから」
なるほど、そういう事か。そう、と頷いた。

父は黙り、窓にもたれかかるような姿勢になった。

外を見る、そのねじれた首筋。浅黒くシミはあるが、肌ツヤは悪くない。俺は不思議なものでも見るように眺めた。父親ではなく、一人の男のものとして。思わず自分の首を二、三度さする。

目的地が迫る。

父は運転手に、そこのドトールの前で一人降りますと伝え、こちらを横目で見てから、目を合わせずに告げた。
「祐哉、今日はお父さん、家には帰らないからな」
やっぱりな。俺は無意識に目をつむった。
そして、さっき出来なかった質問を口にしようと、横顔に目をやった。

父は、俺の全身を、じっと見つめていた。恐ろしく鋭い眼差しだった。出荷前の家畜を検分するみたいな。息が止まる。

その後、何度か瞬きをした父は、内ポケットから財布を出した。二万円引き抜き、俺のジーンズへ強引にねじ込む。
「これで彼女とうまいものでも食べなさい。
あと、お母さんには俺から話すから、祐哉は余計なこと言わなくていいからな」
見え透いた嘘、そして金。
全身の力が抜けるのを感じた。

「はい、花、ありがとう」
左手を差し出した父に、花束を渡す。タクシーが止まり、ドアが開く。じゃあな、と片手をあげる父に、うん、と頷きだけ返して、俺は外に出た。

さっきよりも冷たい風が、まだ鳥肌の残る腕に吹き付ける。反射的にぶるっと肩がすくんだ。車は二ブロック直進すると右折し、路地に入っていった。

………

外はすっかり夜だった。郊外の、柔らかい紺色の空には、星がふたつ、冗談みたいにポチリと張り付いていた。
地上にはカラフルなネオンが煌めき、整然と並ぶ花壇の植え込みや街路樹を照らしている。その間を、エコバックを下げた女たちがせかせか、あるいは重さに耐えながらゆっくり行き交っていた。ガラス窓の向こうには、友人同士で喋る面々や、タブレットを操作する男などが、コーヒーを飲み、思い思いにくつろいでいた。

ゆっくり深呼吸した。二度、三度。下りかけたカバンをよいしょ、と引き上げる。
どっと疲れた。

腕時計を見ると、明日美の家までは普通に歩けばちょうどいいくらいの時間だった。腕を動かしたせいだろう、カサブランカの残り香がまた鼻を刺した。
とっさに腕を振った。
手をパンパン叩き、肩を二、三度払う。
そうしたって取れるわけないと、勿論頭では分かっていた。でも止まらなかった。

ふと、目の前に立つ街路樹に目が止まった。

灰色の表皮に、白っぽい横縞が入った細っこい幹。ひょろひょろの枝、それに見合わぬほど青々とした葉。幹の下から三分の一あたりに、鳥居のような形に組まれた添え木が立っている。
幹と添え木は針金でぐるぐる結ばれていた。針金がうまく曲がらなかったのだろう、おそらく八の字に繋ぎたかったであろうそれは、浮いたりねじれたりして、随分乱暴な結び目を作っている。幹に接触したところは深く食い込んでおり、ひ弱な体をさらに痛めつけていた。三者は複雑に、不幸に一体化していた。

俺は、木に近づいた。

二本の針金が、直径10センチ弱の幹の、三分の一ほどにまで達している。力を加えれば、簡単に折れてしまうだろう。ひでえな。もうちょっと、丁寧にやってやれば良かったのに。

木の半生に思いを馳せた。

恐らく、人工的に発芽し育てられ、ある程度の大きさになってから、ここへ連れてこられた若木。まだ未成熟なのに無理やり植えられ、強引に縛り付けられた。結果、大きな歪みと傷がついた。それでも静かに立ち、豊かな葉を生い茂らせている。何も言わず、黙って生を全うしている。
気の毒だ。意思を、権謀術数を持っていれば。それを表現する力があれば、好きに出来ただろうに。理想に近づけただろうに。

ふんと鼻を鳴らし、歩き出そうとした。
一歩、二歩。

足を運ぶと、急に腹が痛くなってきた。
どうしたのだろう。タクシーで冷えたのだろうか?意に反し、どんどん収縮する腸は背を曲げ、前へ進もうとする足を止める。
俺は方向転換し、ドトールを併設するスーパーへ入っていった。確か、二階にトイレがあったはずだ。

さっきまで、複雑に入り組んでいた俺の思考回路は、あっという間にばかになった。腹が痛い。痛い。痛い。
もうそれしか考えられなかった。

夕刻のスーパーは混んでいた。
カゴいっぱいに食材や生活用品を入れた仕事帰りの老若男女、やかましい音楽。
脂汗をにじませながらエレベーターに乗った。刺激しすぎないようにゆるい歩調でトイレまで行き、個室に入る。

ひととおり、始末して水を流した後もしばらく便座の上に留まっていた。
まだ、鈍い痛みが残っていた。体を二つに折り曲げたまま、荒い呼吸を繰り返す。
元々腹は弱い方だが、前触れもなく痛くなるのは珍しかった。ティッシュで額の汗を拭き、ついでに首と脇も拭いて便器へ捨てる。

外から子どもの声が聞こえてくる。

「兄ちゃんは自由研究どうするの?」
「もうやってるよ。車の歴史」
「ずるい。パパに手伝ってもらうんでしょ」
「いいじゃん、7月中に全部終わらせる計画なんだもん。マコもそういうの考えろよ」
「ええー、俺も車がいいー」
「それはだめー。マコも早く決めな」
「腹立つ。兄ちゃんはいっつも偉そうで…」
ゴオオとハンドドライヤーの音が鳴り、あとはよく聞こえなかった。

ふうとため息が出る。

腹へ手を当てた。掌の温もりが内へ伝わる。二、三度深呼吸をしてみる。目をつぶり、腹から息を丁寧に吐く。四度、五度。落ち着いた、と思う。

俺はようやく立ち上がった。

洗面台の大きな鏡には、青白い顔の軽そうな男が映っていた。右ポケットからは札が飛び出している。
おもむろに取り出し、諭吉の顔を眺めた。財布に収めるか否か、鏡の前でしばし悩んだ。どうする?
母に渡すが否か。空っとぼけて話してしまおうか。
いや、そんなことをする資格が自分にはあるのか?

すると、太った中年男がトイレに入ってきた。手元を見られて慌てる。取りあえずカバンに素のまま放り込み、大股でそこを出た。

再び時計を見ると、本来なら明日美の家に着くべき時刻になっていた。
早足でエスカレーターを降り、自動ドアをくぐって、ずんずん行った。ぬるい夏の夜気を雑に裂きながら。

少し前方には、さらに急ぎ足の女がいた。背を丸め、両手にエコバッグを二つぶら下げている。

あっ、と思う間もなく俺の口は動いた。

「明日美!」

肩がびくっとする。振り返った彼女は、満面の笑みで、ごめーん、と言いながら近づいてきた。俺は反射的に微笑む。
彼女の元まで軽く駆け、荷物を持ってやった。
「仕事が遅くなっちゃって。これからご飯支度なの。携帯見た?ごめんね」
「いや、見てない。でも俺も遅れてたから。飯なんてゆっくりでいいからさ。一緒に帰ろう」
いい加減な優しさを笑顔に変えると、明日美は世にも嬉しそうに頷いた。

肩を並べて歩き出すと、明日美は訝しげに尋ねてきた。
「祐哉、なんかいい匂いするよ。香水?」
少し考えた。が、結局本当のことを言う。
「いや、さっきまで花持ってたから」
「何それ。どこの女にあげたの?」
明日美はムッとした顔で睨みつけてきた。
「ちげーよ、父親が買ってきたのを持たされたの」
「へえ、お家に花?随分ジェントルマンなお父さんだね」
「俺に似てるからな」
明日美は何それ、逆じゃないの、と笑った。
また腸がぎゅっとなる。腹を押さえつつ、横断歩道へ向かった。
渡る途中、中央分離帯の辺りで急にこちら目掛けて虫が飛んできた。わっ、と明日美が手で払う。蛾か蝶か判断しかねる、鈍色の大きな羽。
乱入者は二人の間をすり抜けると、分離帯に並ぶどっしり構えた木々の枝を分けて、飛び去っていった。

俺は歩きながら振り返り、その木を見上げた。
がっしりした幹、それに相応しい、伸びやかな枝と大きな葉。夜の影をまとっているせいか、もの凄い迫力があった。向こう岸の情けない街路樹を思い出し、少し悲しくなる。
「立派な木だよなあ」
渡り切ってからそう呟くと、ん?と明日美はこちらを見て、俺の目線を追った。
「ああ、でもあれ、これとおんなじ種類なんだよ」
すぐ側の街路樹をポンと叩く。
「マジで?」
思わず大きな声が出た。
「これとあれが?」
中央分離帯と側の木を俺は交互に指差した。うん、オオバボダイジュ、と明日美は事もなげに言った。
「全部、市で管轄してるから」
彼女は市役所で働いているのだ。

俺は声が出なかった。
向こう岸の、錆びた針金とへなへなの幹の方に目をやる。環境によって、こんなにも差が出るのか。
「変わるもんなのな」
独り言に明日美は、ん?と小首を傾げた。俺は向こう岸で見た風景を説明する。
「そっか。実務は下請けなんだけど、担当もずさんだね。報告するよ。情報ありがとう」
真面目な顔で言うと、一転、柔らかい表情になり、木を見上げた。

でもさ、と続ける。
「私、この子達、尊敬するよ」
尊敬?
真意がよく分からず、ん?と顔だけで聞き返した。
「こんなに近くにあるのに、ちょっとした違いでこんなに変わるなんて、酷いじゃない。うちらのせいじゃん。
でもこの子達、文句一つ言わないんだもの。増してや人間のさ、『緑化計画』とか、理想の街ー!みたいなやつの都合で振り回されてるのにね」

ああ、そういうことか。深く頷く。さっきの俺と思考がシンクロしている。
「本当、無心で生きてるんだなあって。胸打たれるよ。まあ、それすら人間の価値観で、木の方はただ受け止めてるだけなんだろうけど」
夜に溶けた横顔、潤う瞳。白い肌が光って見える。
「明日美って賢いな。良い女だな」
しみじみ言うと、もう、またからかうんだからあ、と頬を膨らませた。きっと演技だ。それでも可愛かった。
「元は一緒だもんな」
「そうね。祐哉も勘のいい男ね」
まあな、と適当に返して、再び木を見上げた。
元は一緒。自分で発した言葉に縛られる。

俺は今、どんな木なのだろう。

早く帰ろうよ、と促されて、俺は歩き出した。目が潤むのが分かった。鼻をすする。

俺は、あー、腹減った腹減った!と大きな声で言った。
何よ、さっきゆっくりでいいって言ってたのに、と口を尖らせる明日美に、だって急に腹減ってきたんだもん、早く飯食いてー、とわめいた。阿呆の子みたいに、何度も何度も。呆れる明日美の眼差しが心地よかった。 (了)
#小説

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