わたしの姿

疲労の蓄積や季節の変わり目等が重なり、此の所体調は低空飛行を続けている。今は完全に風邪だ。家では寝てばかりで、休むことにも飽きているが、起き上がるとふらついてしまうので仕方なく横になっている。ベッドに潜り込んでもそもそiPhoneをいじり、時々読書といった地味な日々だ。

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自分の自覚する「じぶん」と、他者から見た「じぶん」には必ず齟齬がある。どちらの見立てがその人を正確に表しているかはケースバイケースだ。「俺は深い思考をする人間だ」という人が、世間的に見ればまったく浅いタイプであることはしばしばあり、「この人は強い」と思われている人が思わぬ脆さを表出することもある。
「自分のことは自分が一番分かっている」というのも、「自分を正しく客観視出来る人間などいない」というのも、同じくらい本当であり、また嘘をはらんでもいるだろう。

私は大変な人見知りで、幼い時分は団体生活に入る際、どう振る舞っていいのか分からず定期的に大泣きしていた。昔から読書や妄想が好きなので基本的に一人でいるのは苦でないのだが、周りに沢山の同世代がいる中でひとりぼっちになるのはものすごく怖かった。妄想好きな割には想像力が粗く、突飛な言動で迷惑をかけては嫌われる、という繰り返しだったように思う。
況してやあの頃は、人にほぼ興味がなかった。宇宙とか昔話とか、現実からはるか離れた世界の事柄を知るほうが楽しかった。人と交わろうという意識が希薄だったのも、人見知りに拍車をかけていたのかもしれない。

しかし先日、私は信頼している人から「あなたは物怖じせず誰とでも会話を楽しめる人だね」と評された。褒めてくれたのにもかかわらず、少なからずショックを受けた。そんな風に見えるのか、と。
現在、表面的な社交は特に問題なく行えていると思う。理由はシンプルに年の功だ。後は創作を続けてきたことも洞察力を深めてきたように思う。様々な人間関係を経験し観察してきた結果、今は初対面の人ともそれなりに関係性を構築出来るようになってきた。
ただ、だからといって人見知りが治ったわけではない。人あたりして疲れるとすぐ引きこもりたくなる。また、人が怖くて苦手であるからこそ、デリカシーを持って接するし、相手の気持ちを想像し、おもんばかる癖もついている。笑顔を作るのにも慣れた。つまり、私なりに社会を渡っていくためのサバイバル技術が「物怖じせず人に近づく」ように見えているのかもしれない。

本音を言うと、人見知りである自分を、私自身は大変に気に入っている。人への恐怖心、あるいは世界への恐れはパーソナリティの軸なのだ。無知・未知が怖いからこそ知識や教養を得たくなるし、観察や洞察を怠りたくないと思う。そこを手抜きすると確実にメンタルが悪化するので、ささやかながら努力をするのだ。
根暗さや、弱く愚かしい己を肯定的に許容できてから、少しだけ生きるのが楽になったのも、理由の一つである。
なので、「朗らかで物怖じしない明るい人」として扱われるともの凄く違和感を覚える。自分の振る舞いが生んだ結果なので仕方ないのだが、すごく周りを騙しているというか、欺いているような心地になる。もっと言えば「ああ、この人はあんまり相手を深く見られない人ないんだな」とすら思ってしまう。
人の心の中にいる自分なんて、もはや幻想に過ぎないんだなと感じる。逆を言えば、私の中にいる様々な友人知人の姿も所詮は幻想なのだ。
目は二つしかないし、人生は一度しか経験できない。いくら幅を広げようと努力しても、視野・視点は限られてしまう。今後もその自覚を失わずに、人と接し、想像力を磨いていきたい。もう少し余裕ができたら書き物にも取り掛かり、もっともっと世界を見る目を養い、深めたい。

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最近は又吉さんの「人間」、平野啓一郎「マチネの終わりに」を読んでいる。後者、映画では福山×石田ゆり子が演じているが、小説のイメージにどうしてもはまらない。永山絢斗、森山未來あたりを想像して読んでます。女優さんは蒼井優、松たか子などでしょうか。あくまで個人的な感覚ですが。そういうミーハー読みも楽しい。

最近はお蕎麦ばっかり食べてます。鉄瓶に入った蕎麦湯が美味しかった。

#人見知り

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