唯一罪があるとすれば、それは己の欲望に譲歩することだ

「唯一罪があるとすれば、それは己の欲望に譲歩することだ」というのはジャック・ラカンの罪の定義ですね。『さらざんまい』を履修しているのでメモとして残しておきます。今四話。お尻の話が多くない?

 幾原邦彦は恐らく同じことを何度も何度も執拗に繰り返して螺旋状に己を突破していく作家とお見受けします。うん、『廻るピングドラム』でプリンセスが取り出すアレ、モロにジャック・ラカンの「対象a」ですよね?

 そういう作家性を持つ人ってのは割と沢山いて、例えば村上春樹だったり。村上春樹文体を「やれやれ。僕は射精した」で笑いものにするの、最悪にダサいのでやめた方がいいです。せめて「僕はベーコンを炒め、その間にアスパラガスを茹でた」まで行きましょう。

 2000年代のBUCK-TICKのアルバムも割とその傾向にある気がする。冒頭に飛び道具的なへんてこりんな曲があって、明るくスピーディな曲が何曲が続いて、後半少しダークでGothicな曲が続いた後、ラストでロックアンセム的なものが配置される、的な。その過程において、彼らは(というか櫻井敦司は)ついに”BABEL”をものしましたね。

今宵は 天を貫く
おまえの元へ 我はBABEL
喜び 悲しみ 怒り
欲望の果て 我はBABEL

 櫻井敦司が母の死に目に立ち会えず、その苦しみを何度も曲にしているのは有名は話です。”BABEL”において「おまえ」とは「母」であり、そのファルスとしてBABELがあり、それは即ち櫻井敦司です。つまりこの曲のテーマは「お母さん、わたしはここにおります」でしょう。これは櫻井敦司においては全的救済ではないでしょうか?

 ……多分。

 幾原邦彦は欲望(重ね重ね申し上げますが、欲望と欲求は別の概念です)と命をほぼ同義として語ります。欲望という焔に翼を叩きつけることが生きること、命を使うこと、つまり使命だと。『さらざんまい』の警官なんかは露骨にラカンで、「去勢」というテクニカル・タームが露骨に出てきますね(去勢はフロイトですが、ラカンは自らをフロイト派と任じていますので)。

 ここで喫緊の課題となってくるのはフーコーの生権力でしょうか。社会的有用性と私秘的なものを監視され、暴かれること。欲望と社会的有用性はしばしば背馳しますし、欲望を突き詰めていくとデモーニッシュなものが顔を出します。櫻井敦司の母への執着も、一般的にはちょっと受け容れ難いものでしょう。どう闘うか。

『風立ちぬ』も欲望に身を灼く青年の姿が描写されますね。そしてそれは端的に地獄を顕現せしめ、青年はさらにその後を生き延びることになります。なんという重い十字架。然るに、宮崎駿においてそれは肯定されるべきものなのです。それがつまり。

生きねば

なんかくれ 文明とか https://www.amazon.jp/gp/registry/wishlist/Z4F2O05F23WJ