命の燃える場所

 今はなき畏友が是非にと勧め、かの偉大な書に於いても「何は無くとも読んでおけ」と書かれていたところのアリストテレスの『詩学』が全くもって不可解だったし不快だったので『はねバド!』の話をしましょうね。

 そのシャトルの初速は新幹線と同じであり、視認して対応しようとして出来るものじゃないし(スマッシュを打たれる時点で作戦失敗だし、そのような事態になると察した時点で着弾地点に既に居る必要がある)、そのような痙攣的な死であるところの競技なのであって、公園でのほほんとポンポンして良いものではない、バドミントンが主題です。

 やってたんですよ、バドミントン。あれは柔道と同じで死の必然が視えるので好きでした。頭がよくないので、そのような切迫に身体が反応する系の運動じゃないと、わたし、出来ないんです。

 練習がキツ過ぎてやめましたが。柔道の方がまだ楽だった。

 さて、特に『はねバド!』の7話で主人公の異常性が露わになるあたりからノンストップ履修でした。どれだけ打っても打ち返して来るという絶望は冒頭に描かれるわけですが、仔細な観察者である、とあるキャラクターの言を借りると、こう。

「異様なスピードのラリーと、必殺の一撃を誘発する誘い玉、つまり、カウンター」

 シャトルを拾わせないというのが基本的なルールに於いて、必ずしもカウンターを狙う必要はないわけで、ここで描かれているのは最も命を賭けた打撃を打ち返す、つまり心を折ることを好むという、病的にサディスティックな側面です。

 どんなに描こうが、どんなバックグラウンドを背負っていようが、どうしたって嫌なキャラクターになるわけだけど、これ、どうやって覆すんだろうと固唾を飲んでおりましたが、まさか、まさか。

 物語を背負うにはちょっと役者不足かなと思わされるような筋肉馬鹿も、ちょっと献身的過ぎるのではないかと感じられたヒロインも、全部全部折り目正しく畳んで下さって、本当に頭が下がる。

 勝負事といいますのは、勝つか負けるかしかなく、自分の強さを証明するには勝つ必要がある、という構造的欠陥というか、理不尽のようなものがあるわけですが、じゃあそれを跨ぎ越した後どうなるの? 何が待つの?

「物書きはねぇ、書くことでしか己を修復出来ないんですよ」

 とは師の謂である。度し難い。度し難いねえ。物書きもバドミントンも、結局、それを通じてしか自分を助けることが出来ないんですよ。技芸系の人はだいたいそうなのかしら。自分の心身を脅かすものでしか、自分の心身を再統合出来ないんだ。折角だから今日届いた谷川俊太郎を引いて終わりますね。

かみさま
あなたは きりんを ほんとに あんなふうに つくりたかったの?
それとも あれは なにかの まちがいですか?

なんかくれ 文明とか https://www.amazon.jp/gp/registry/wishlist/Z4F2O05F23WJ