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なんでもないもの

随分と久しぶりの更新です。

久しぶりも何も、年に数回しか更新しないこのnoteが生きていると言えるのかも微妙なところなんですが。
兎に角わたしは生きているので立ち上がる文字も生きているということです。

今回はなにかのテーマについて書くのではなく、
日常をつらつらと振り返ってみたいなと思ったわけです。

素行の悪かったわたしが32歳になって、
変わらず誰にも知られずにひっそりと息をしていることが、鉄格子のついた窓から社会を覗いている気分にします。

いま私が磨いたキッチンだって誰にも知られずにそこに在る。
わたしが居る意味はないかもしれないけれど、
肩肘をついて些細な変化を感じ取り、時に見なかった振りをしてどこかにやってしまう。

実はこの「見なかった振りをした」なんでもないことにこそ、莫大な力が隠れているのだと最近気が付きました。
安定した状態を保ちたいので脳が省エネしちゃうんですね。
愛だとか怒り、憎しみや欲求を全身に感じながらそんなこと朝食の時間に語ったりするほど貧民は暇ではないのです。

みんな自分の哲学を、「見なかった振りをした」特別じゃないものに簡単に分別し過ぎなんじゃないかなと、反省をする必要はないけれどそれってもっと拾えるものじゃないかって、思うんですよね。

一部の才能あるひとだけに備わった機能ではなく、
ひとはみんな無意識に片付けていくだけで、
あなたのその日常の中にあなただけの哲学があるんだよ、と言いたい。

自分で見てもなにもないなら、誰かに見てもらえばいい。少なくともわたしはそれで、随分と素敵な思い出を分けてもらったものです。

あなたのなんてことのないなにかは誰かにとっての大事ななにか。時には振り返って、ぽつりとつぶやいてみたら星々がきらきらした夜がそこに、広がっていくかもしれない、と思うのでした。

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