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「意義」と「意味」

Notionを整理していたら、過去に読んでいた本のハイライトが出てきた。

この本では、「意義」と「意味」との定義をされていて、なるほど。と思った。言っている事に共感してしまうのは本来そうありたいと自分自身も心の中で願っているのかもしれない。

私は働く事にやりがい(生きがい)を感じたい人間なので、働く事へのバイアスを持っているのだなと認知する。働く事は何かしらの仕組みがそこにはあって、その中でパズルを解いているような感覚だ。

子供と夢中になって遊ぶ事は何も考えていない。考える事には考えているのだけど、まずは目の前のある対象物に対して何も考えずに取り組む。形になってから意味をつける、ルールを決める。みたい事をしていたような気がする。
例えば、子供と粘土遊びをしていた時もそうだ。目の前にある粘土を何も考えずに形にして、それが何に見えるのかを想像して意味を見つける。
時には「ドーナツを作ろう」と目的を決めてから作る事もあるけど、目的もなくだた粘土の触感が気持ちいい、絵の具を混ぜてみよう、これはまるで石みたいだから囲んで温泉にしてみよう。そしたら温泉の水が必要だね。とか。

適切な解を求めてパズルを解くように考えるのは、頭が喜ぶ
遊びを取り入れながら目の前の事象を楽しむのは、心が喜ぶ
どちらも大切にしたい。

以降は書籍からの引用。
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人間というのは生きる意味が見出せないと生きられない特異な生き物である
そして生きることの意味を理解するためには、「働くこと」の意味を理解する必要がある

「働かざるもの食うべからず」という「労働教」が世界に蔓延してしまったことで、「仕事」=「食べるための手段」に成り下がってしまった

無意味な時間の浪費は悪であり、有限なる時間を有意義に使わなければという「有意義病」にもかかっている。

現代における「仕事」では「結果」としての「意義」しか求められないので「意味」を感じることができないため、仕事を通して「本当の自分」を取り戻すのは困難である

「意義」=頭で考える損得勘定
「意味」=心(身体)で感じるもの

今の社会において現実的に「生きる意味」を見出す具体的なアクションプランとしては、なんでもない日常に「遊び」の要素を取り入れること

ここでいう「遊び」とは、「心」と「頭」が相乗的に喜び合っている状態

ちなみに、なぜ「遊び」という要素が取り除かれたかというと、貨幣経済により「質」ではなく「量」で価値を見出すようになったからであり、それにより、ロジカルに論理的考察をし効率化することで生産性を上げることで結果を出すことに重きが置かれる社会が形成されたが、そもそも「遊び」とは非生産的で「無駄」なものであり、結果ではなくプロセスに意味を見出すものなので、必然的に社会においては「遊び」は価値がないと虐げられた

「遊び」の感性を取り戻す手段として「即興性」を日常に取り入れることが有効であり、具体的には、あえて、無計画・無目的・即興性に行動してみる。

仕事なんか生きがいにするな 生きる意味を再び考える


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