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感情表現の自由

考察シリーズ。逆説を豊富に使うため、意味不明になる模様。

相手が思い通りにならないのは当たり前。相手に期待するから自分が疲れる。

的なことってよく言われるじゃないですか(誰にだよ)。いや、そう。そうだと思う。コントロールは無理よね。支配とかになったら、それは昨今流行りの○○ハラ系で訴えられるやつだし、自分の基準に達しない人をバッサバッサ切っていると昔の私のようになるからやめた方がいいと思うし。

ただ、期待するというのは相手に関心があるからでもあると思うので、それはそれでよいことだと私は思っている。

私の仕事上での基本方針は、「何も言われなくなったら終わり」である。これは上からも下からも横からも。誰かが意見してくれるうちが華である。意見されなくなったら、こいつは言っても無駄、または言う価値がない、無視に匹敵する(これは私が貼るレッテルか)とかになるから。本人に言わなくなっても組織に期待していれば上に言うしね。組織に言う価値がないと思ったら完全なるThe ENDです。

だからもしかしたら一般的な人間関係、親子、兄妹、友人、恋人なんかもそうなのかもしれない。言われる、言えるうちは関係がマシなんだと思う。自分の母との関係を考えると、私が何も言わなくなった頃(だいぶ小さい時)から関係はよくはならなかったから。元夫に対しても同じ。私も相手もだんだんと思ってることを言わなくなったから関係が変わっていった。

が、しかし、同時に相手に対して自分の気持ちを伝えることが必ずしも正解なのかと言われるとそうでもないと思う。

私は変わっているからかもしれないが、やたらにストレートに好きだとか言ってくる男は苦手である。ちなみに元夫はこのタイプであった。好きと言う感情においては私もそうだが周囲に対しても非常に分かりやすく表現してくるタイプだった。最初嬉しかったけど、そもそも私はこの手のタイプは苦手なんだったと最近やっと思い出した。密室では別にいいが、外ではヤメロと思う。だからといって分かりにくすぎるのも問題だが。難しいな。

愛情表現というのは人によって違うのだから、表現する権利も、表現しない権利もどちらもあっていいと最近思っている。さらに表現されて嬉しいか嫌なのか、表現されたいのかそうでないのか。それらもひっくるめての相性なのかなとも。

そして愛情だけではなく、感情一般にもそれは言えるのかなと。私は冷静に見えるらしいが実際は結構感情は豪快である。笑う時はギャハハと笑うし、怒る時はマジで目つきから口調も声量も変わるし、悲しい時はボロボロ顔を破壊して泣く。この感情の表現度合い、とでもいうのか、は人によって全然違うし、感情だけでなく言葉や態度も然りである。これは生まれてからそれまでに培ってきちゃった何かなので、簡単には変えられない。

何で言ってくれないのだろうか、何でそういう態度をとるのだろうか、ってなったとき、相手に事情があるからというよりは、そういう性質なんだなと思うようになった。例えばカマキリ氏とか(最近すっかり忘れてた)、謎過ぎて分からなかったけど、彼は私に対して全く同じことを言ってたのを思い出した。yucapokiさんて謎ですね、よくわからないですね、と。まさに性質の違い、かつ、お互いに見たことない性質だった。そういうことなのである。

さ、終わりが見えなくなってきた。

思うのは、考え方もそうだろうけど、感情の表現の仕方についても正解はないなということ。鬼滅の刃のカナヲちゃんが全然感情も自分の気持ちも表現できなかったけど、それは彼女が育ってきた環境がそうさせたから。嬉しくても喜べない、悲しくても泣けない。それって仕方ないと思う。炭治郎がきかっけを与えてくれたから少しずつ変われたけど、実際はそうじゃない人の方が多いと思うし。

私も勝手にカテゴライズとか考察とかして、色々括りがちで反省せねばと思うけど、合わなくても違っても期待にこたえなくても、それでも大事にしたい相手だったら自分がどうにかこうにかして頑張ればいい。それでもやっぱり「私はこんなに頑張ってるのになぜ分からないの(キー!)」みたいになるのは疲れるから、(相手のためでなく)自分のために相手への期待は適度になのだとも思う。

他人が関わることに関しては、最終的にはなるようにしかならんから。ね。そこでご縁なる言葉が登場するのかなとも思う。

なお、これって自分は渦中にいないから書ける系の文章だと自覚してますので、悪しからず。