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深藍

 わたしと夫の身長はほとんど変わらない。わたしは身長の高さが小学生の頃からコンプレックスだったけれど、同級生だった彼の身長はいつの間にかわたしに追いつき、そしてそのときからふたりの身長はほぼ同じのまんま今日に至っている。それはまるで、いつもわたしと同じ場所にいて、常に同じ場所からわたしを見てくれている彼のハートに似ている。不思議なことに彼にはそれを端的にあらわしている顔の部分があった。鼻孔がそう。正面から見たとき彼の鼻孔は綺麗なハート型をしていた。そう言えば昔はずいぶんと彼の鼻ばかりを見ていたような気がする。彼が優しい瞳でわたしをずっと見つめるものだから、うぶだったわたしは逃れるようにすぐに視線を少し下へとさげていた。恐らくこの世界じゅうでわたしほど彼の鼻を見つめた人間はいないんじゃないかしら。だからわかるの。だから気づくの。夫の鼻が少し高くなっていることが。ある日なんとなくふいにダイニングテーブルの向かいに座る夫の鼻に目がいった。意識して見たのはほんとうに久しぶりだったけれど、そのとき彼の鼻孔がいびつなハート型になっているのがわかった。明くる日、ピアノ用眼鏡をかけて確かめてみたけどやはりいびつなままだった。ショックだった。それはわたしをとてつもなく不安にさせる凶兆だった。
 わたしは夫の鼻の変形について考えた。夫はわたしにならって椅子にはきちんと座る。姿勢のせいではないのは見ればわかる。ではなぜ? わたしたちは二十五歳で結婚してそれから三十年経つ。しかしお互いそう老け込んでいたりはしていない。夫は仕事をバリバリやっているし、髪もまだフサフサだし、毎週トレーニングジムに通って体を鍛えてもいる。本当に夫は見た目は三十代と言っても過言ではないほど若く見える。そういうわたしも美容には人一倍気をつかってきたからわたしもお化粧をすれば三十代と言ってもわりかし通用したりもする。したがって夫の鼻の変形は老化によるものだとは考えにくかった。
 もしかして遺伝かもと次にわたしは考えた。わたしは新しいピアノミニアルバムのレコーディングを終えた翌日にさっそく夫の実家を訪ねてみた。夫の両親はおふたりともお元気で仲睦まじくわたしの理想でもある。でもおふたりの鼻を意識して見たことなどなかったからちゃんと確かめてみたかった。母親似の夫だけど、お義父さまの鼻もしっかりチェックした。しかしおふたりとも特に鼻が上向きになっているといったことはなかった。
 次にわたしは病気の可能性を考えた。わたしはあらゆる方法でそういう病気があるのかを調べてみた。しかしこれも鼻が上向きになるといった病気は奇病も含め夫の現状にあてはまるものはひとつも存在しなかった。ひょっとして彼が人類初の病気にかかったのかもしれないと考えてはみたものの、それはわたしなんかが判断できる範疇のものではないのでこの考えはとりあえず保留にした。
 やはりこれは老化によるものかもしれないとわたしは考え直した。顔の筋肉の衰え具合によって鼻が上向きになってしまうこともあるんじゃないかと。これなら人それぞれ個人差があるから遺伝や病気でなくても夫にだって可能性がないわけではない。わたしはこの頃にはもう精神的にかなり苦しくなってきていたので、しばらくこの考えに盲目的に頼ることにした。五十も半ばを過ぎればいくら体を鍛えていても顔のほうの筋肉の衰えは避けられない。あの愛しかった彼の鼻が変形してしまったことはすごく悲しいけれど、わたしはしばらくそう考えておくことにし、そうして夫の鼻の変化に努めて穏やかに慣れてしまおうとした。
 しかし、その想いとは裏腹にわたしは慣れるどころか疑念ばかりが募っていった。それは急に夫が今までとは違う行動をとり始めたことが要因だった。今まですべての食事はわたしが用意していた。ところが最近、週末の夕食を夫がつくるようになった。せめてものお礼だよ、と夫は言う。それから晴れた日にはよく一緒に散歩にでかけるようになった。太陽の光をふたりで浴びたくなってね、と夫は言う。そういった変化は最初のうちは楽しかったしうれしかった。それなのにわたしの心はなぜかだんだんと落ち着かなくなっていった。それはひとえに鼻の変形の件をまるで立証するかのような夫のこうした行動の変化のせいだった。
 やはり何かある。あのほんの少し上向きになった夫の鼻には、何かが。そこでわたしはあえて目をつぶっていたあるひとつの原因とついに向き合うことにした。
 夫は嘘をついている。
 ピノキオ効果というものを聞いたことがある。人間は嘘をつくと鼻の周囲の温度が上がるという研究結果があるらしい。だから嘘をつき続けていれば多少なりとも鼻に変化をもたらすことになるのではないかと。わたしは……わたしは彼を心の底から愛している。彼より大事なものなどひとつもない。もしも彼が裏切っているのなら、それを知らせるために鼻がそうなったとしても不思議ではないのだ。きっと愛の作用というものはそういうものだとわたしは思うから。
 わたしは行動を起こす。いつものように夫を笑顔で見送る。そして、あとをつける。
夫は新緑の欅通りに面した事務所に入っていく。自分が代表の設計事務所。社員は夫と同じ一級建築士がふたり。ガラス越しにアトリエのような事務所の室内が見える。お誂えむきに道路を挟んでちょうど向かい側にカフェがある。この時間カフェの窓ガラスに欅の木漏れ日が落ちていて外からはこちらが見えにくくなっているのをわたしは知っている。夫の事務所には何度も差し入れに訪れているから。ああそっか、このカフェに入るのは、彼と新しい事務所を探していたときに入って以来だとわたしは気づく。あの日、彼は反射光の話をしてくれた。反射光にはふたつあって、物体の表面に反射する光と、物体を透過して地面からの照り返す光があるって、そう。彼はこの照り返しの反射光のほうにすごくひかれていた。彼いわく、それは深く、そして静かな光なんだと。物体をより印象的、かつ魅力的にみせるのは、この光なんだと。彼がコンペで最優秀賞を獲ったポートタワーはまさにこの光がみせる芸術的作品だった。そのポートタワーは今もなお、晴れた日には時間の経過とともにその反射光を利用して少しずつその色彩を鮮やかに移ろわせ、さらには曇りや雨の日には内からの光でほのかに優しく憂鬱な風景を和らげて、夜になれば屋上の赤いランプが何かの星座のように瞬いて夜空を飾りながら居場所を示している。思えば彼の放つ光はわたしを貫いて、照り返しの光でわたしの心の底を照らしてあたためてくれていた。わたしの表面に反射するその光は、わたしの目の前に広がる日々の光景をきらきらと眩しく見せてくれていた。
 そんな彼がわたしを裏切るなんてことがあるのだろうか? わたしはカフェの窓際の席から彼の一挙手一投足を見ている。彼が笑っている。笑い合っている相手は三年前に採用した女のコ。国立大の建築科を首席で卒業した才女。しかも美人。なぜ彼の事務所に来たのかその理由をわたしはふと思い返す。彼が設計した建物に男性たちが忘れ去った愛の力を感じるからだと彼女は言った。
 きっかけはわたしの流産だったのだろうか? あの日以来わたしは星に願い続けていた。新しい命がわたしのお腹に宿ることをひたすら願い続けていた。願いは叶わなかったけれど、代わりに嘘をつけば彼の鼻が伸びる魔法をかけてくれたのかもしれない。わたしはなぜだかわからないけど、科学的根拠や愛の作用よりもこの考えに擽られるように微笑む。
 時刻はお昼近く。右腕である佐藤くんがランチにでかけていく。なんと夫とその才女だけが残った。嫌な予感がする。わたしはこれから展開されるものを見るべきなのか、それともこのまま帰るべきなのか戸惑う。ちょうどそのとき太陽が事務所を照らしだす。窓ガラスの反射光で室内が見れなくなり、わたしは頭のなかが真っ白になる。
 わたしという意識に揺れ戻ったところでわたしはカフェをでる。信号のない横断歩道を渡る。事務所の前まで来ると窓ガラスの反射光がなくなって室内がよく見えた。ふたりがいない。わたしの鼓動は激しくなる。わたしは早足になる。息がうまくできない。事務所のドアを開ける。奥からふたりが大きな模型を一緒に運んで来ているところにばったりでくわす。わたしは床にへなへなと座り込む。彼と彼女がテーブルに模型を置いて彼が駆け寄って来る。彼の手がわたしに触れる。とたんに呼吸が楽になる。心配する彼にわたしはちょっと眩暈がしただけと言う。彼女がペットボトルのミネラルウォーターを持って来てくれる。彼がそれを受け取りキャップを開けてわたしに差しだす。わたしはそれをひとくち飲んで、もう大丈夫と言う。それからわたしは事務所のソファーで少し休む。彼が彼女に何か話している。彼が来て、一緒に帰ろうと言う。わたしは、そっとうなずく。
 彼の運転する車の助手席にわたしは乗っている。車は家には向かわない。わたしは訝しく思って聞く。ねえ、どこに行くの? 彼は答える。病院だよと。わたしは首を振り、もう大丈夫だから帰りましょうと言う。しかし彼は聞かない。やがて車は大きな病院の前へと着く。駐車場に車を停め、車に乗ったまま彼は話し始める。君は病気だと思う、そう彼がしっかりした声で言う。わたしのくちびるはワナワナと震えだす。ぼくは君のその原因をこの病院の先生に聞いて対処してきたんだと彼が続ける。わたしは謝る。何度も何度も謝る。彼は遮って、なぜ謝るの、と言って悲しく笑う。だってわたし、あなたを疑って、と泣きだしそうになりながらわたしは叫ぶように言う。ちょっと待って、と言って彼が続ける。
「君の病気は、たぶん、骨粗鬆症だと思う。」
「えっ?」
「君は背が数センチ、縮んでいるんだと思う。」
「わたしの、背が?」
「うん。」
「えっ。」
「ぼくにはわかる。ぼくは君をずっと見続けてきたんだから。それこそ小学生の頃からね。君がピアノを弾く姿とその曲に一目惚れしたときから。そしてその曲名を尋ねたら、ぼくのテーマ曲だと君が言ったあの日から。君はピアノを続けているから椅子には姿勢よくきちんと座るね。ぼくもそれを真似ている。そしてある日、ぼくは気づいた。君が座る向こうの壁に飾ってあるポートタワーの写真のパネル。君がカメラで撮ってくれて、パネルにして飾ってある青空とポートタワーのあの写真。今まではタワーは見えなかったんだ。君とタワーは一体だったからね。ぼくはね、君の向こうに青空が見えるのがたまらなく好きだったんだ。ぼくにとっては特別な青空だから。君のいろんな光がぼくにさまざまな青空を見せてくれる。青色を強く散乱してくれる君の空気だけが、ぼくにその晴れやかな世界をくれるんだよ。それでぼくは今日までずっと、強く優しく生きてこれた。君が賞を獲らせてくれたものなんだよ、あれはね。だからわずかな変化でさえ、ぼくには、わかったんだ。」
「見えなかったタワーが、見え始めたってこと?」
「そう。何日も、ずっとね。」
「あなたの鼻が高くなったんじゃなくて、わたし自身が低くなったの?」
「アハハ。そっか。君もズレに気づいていたんだね。」
「ええ。」
「そういうことだったんだ。君の様子が変だと思ってたんだけど、それは病気のせいではなかったんだね。ホッとしたよ。」
「ごめんなさい。あなたが嘘をついているって思ってわたし……だから刺々してた。」
「乱反射してしまっていたんだね。」
「ああ、白っぽい空になってたのね。」
「それもぼくにとっては青空さ。」
「ウフフ……そうか、わたし、骨粗鬆症なの。」
「たぶんね。だからぼくはそれを回復させるために、そのための食事をつくり、散歩へと連れだして太陽の光を浴びてもらった。」
「そうだったの。」
「病院嫌いの君だから、そうするのがいちばんだと思ってね。」
「ああ、あなた。」
「検査は痛くはないからね。女性はある年齢になると女性ホルモンの関係でそうなってしまうことがあるらしい。」
「うん。」
「大丈夫だから。確かめてみよう。もしそうなら、しっかり治療しよう。」
「ええ。」
 夫は肩を優しくさすってくれている。わたしのカラダと心は、青の度合いを強めていった深藍(ふかあい)な海の、たゆたう波に浮かんでいるような心地になる。


(おわり)

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