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ギシギシ

「ゲジゲジじゃなくて?」
 わたしは念のため聞き返した。
「カタチはそっくりなんだけど違うの」
 ヨウコさんはそう否定する。わたしは指摘された背中を動かすことができない。
「ああ、はっきり見えてきたわ」
 ここは会社の屋上。彼方に高層ビル群が見える。わたしたちOLたちのひとときの息抜きの場である。ヨウコさんは三年先輩にあたるが、わたしが島流し的な部署へと異動になってからはここでふたりきりで会うのは初めてだった。
「ゲジゲジってムカデですよね?」
「仲間だけどまったく別よ。ある意味メタファーよね」
「えっ? い、いや、とにかく早く取ってくださいよ」
「取っちゃダメよ」
 わたしは頭が混乱する。
「な、なに言ってるんですか? は、早く取ってください」
「だからギシギシだからダメ! それ、あなたの一部なんだから」


 というわけでわたしはヨウコさんのアドバイス通りに、ギシギシ用の虫籠を会社帰りに買いに行った。虫籠ってどこに売ってるのかわからなかったからスマホで検索した。虫が大嫌いなわたしにはまるで縁のなかったものであった。最初に寄ったホームセンターでヨウコさんが注文したタイプの虫籠が置いてあって思わずガッツポーズした。ワンルームマンションに帰宅して、さっそく部屋の中央にあるガラステーブルの上に設置した。ヨウコさんの言うところでは、ギシギシは自分で虫籠の中に入っていくとのことだった。わたしは蓋を開け、一分ほど待った。それから虫籠を上から覗き込んでみたが、なんにもいなかった。光の加減かもしれないと思って、身を屈めて透明ケース越しに中を覗いてみた。いた。半透明したゲジゲジ、いやギシギシが透明ケースの向こう側のまんなかへんに張り付いて。上から見た。いない。透明ケースから見た。いる。わたしはサッと蓋をした。どうやら、透明ケースから見ると見えるようだ。ゲジゲジのカタチをした気持ち悪い動きをしているギシギシが。確かめてみたが、蓋のスリット部分や透明な出入り口から覗き込んでみても、なぜか見えなかった。わたしはしばらくその気色の悪いギシギシを、だんだんゾクゾクし始めながら眺めていた。ヨウコさんは言った。毎日眺めてあげるのね、いつか消えていなくなるその日までと。


 日曜日。わたしはヨウコさんと「CHISEI」というパンケーキ屋さんで会っている。ギシギシについていろいろと聞きたいことがあったから、ヨウコさんから誘われた時とてもうれしかった。店内は午前中だったけどすでに満席で、どこか明るさとあたたかさに満ちあふれていた。
「だいだいのことはあの時伺いましたけど、だんだんと聞きたいことがつもりつもってきてしまいまして」
「わかるわ」
 ヨウコさんはパンケーキを頬張りながらそう言う。
「ヨウコさんには見えたんですね、ギシギシ」
 ヨウコさんは頬張ったパンケーキを飲み込んでから言う。
「経験者だから」
「経験者」
「そう。経験者は他人のギシギシが見えるのよ。まあ、あなただから教えてあげたのよ。教えてあげるのってリスクが伴うの。ほら、言いふらされちゃうかもしれないわけでしょ?」
「わたしはそんなことは」
「わかってる。だから教えてあげたの」
「そうだっんですね」
 ヨウコさんはパンケーキを気持ちいいくらい次々と口の中に運んでゆく。わたしも何口が食べるが、ただ食べているという感覚しかない。ヨウコさんがバナナジュースに移ったタイミングでわたしは次の質問をする。
「そもそもなんでゲジゲジみたいな姿なんでしょうね」
「ゲジゲジの正式名称知ってる?」
「ムカデですか?」
「ムカデ網だけど、そのあとがすごいのよ」
「はあ」
「ゲジ目ゲジ科ゲジ属ゲジって続くのよ」
「続きましたね」
 ヨウコさんはそれがえらくツボらしく笑いをこらえてわたしを見ている。
「結局ムカデなんですよね」
 わたしはもっともらしいことを言わずにはいられずにそう言ってしまう。
「ムカデは毒持ってるじゃない。ゲジゲジも毒はあるけど人間には無害よ。いわゆる益虫なのよ、人間にとってゲジゲジはね。だってね、好物が(小声でゴキブリ)なの。すごいでしょ。それに臆病で優しい性格だから、自分から人間の前には姿を現さないの。いいヤツでしょ」
 わたしは一気に食欲をなくして、フォークをそっと置き、すぐさまリンゴジュースに口をつけて誤魔化した。
「まさにギシギシはゲジゲジの姿でしかありえないってわけね」
 ヨウコさんはそう言うと、残りのパンケーキを平らげた。リンゴジュースをチビチビとストローで飲みながら、わたしはまだよく理解できないままで、ある疑問を口にした。
「虫籠の蓋開けてそこから覗いても見えませんでした、透明ケース越しにしか」
 ナプキンでくちもとを優雅に拭ったヨウコさんは笑顔を浮かべて言う。
「そこよね。上からは見えないのよ」
「そうでした。蓋をしても上のどこからも見えませんでした」 
「そうなのよ」
「はい」
 ヨウコさんはわたしが半分以上残したパンケーキを見てから真顔になる。
「自分の目では直接見れないスペックのギシギシだから、透明ケース越しでやっと見ることができるってわけね」
「見る位置が重要なんですかね?」
「まさしくそう」
「でもいいヤツなんですよね? ギシギシって」
「そう、いいヤツ。(口パクでゴキブリ)退治に現れたとってもいいヤツ。姿かたちじゃないのよ」
「ああ……」
「自分に戻ることね。(口パクでゴキブリ)のようなヤツがあなたの心を乱しているのよ。あなた自身が(口パクでゴキブリ)になってしまう前にね。離れることね、そいつから、さっさとね」


 わたしは今夜も虫籠の中のギシギシを透明ケース越しに見つめている。わたしのギシギシは相変わらず気持ち悪い動きを元気いっぱいに続けている。ヨウコさんが言ったわたしの心を乱す存在は世界中でただひとりしかいなかった。今わたしはプライベートでその人としか会っていなかったからだ。その人とつきあい始めてわたしのまわりから友達や知り合いといった存在はすべて離れていった。故郷にも長いこと帰っていないし、母も父も愛想をつかして会いにも来ない。ぶっちゃけ彼以外の人間といても楽しくはなかった。まわりがなんと言おうと、ドストライクのイケメンの彼さえいればよかった。ん? 楽しくは、なかった……。ああ、わたしはそこに差別意識があることに初めて気がついた。そう思った時、彼からスマホに着信があった。わたしはスマホ画面の受話器のマークをスライドする。
「もしも~し」
 彼がどうしたのといったイントネーションでそう言う。
「もしもし」
 とわたしはニュートラルなトーンで言い返す。
「連絡ないからさあ」
「ああ、ちょっとバタバタしてて」
「引っ越しでもすんの?」
「ううん、なんかかいろいろと」
「そっか……ねえ、来ない?」
「う~ん、今日は無理かな」
「え~……もしかして」
 わたしは息を止める。彼はいつもの、もったいつけた感じで続ける。
「……嫌いになった?」
 常套句だった。いつもならソッコー否定するわたしだけど、いったん黙る。
「き、嫌いになったんだね」
 彼は思わぬ展開に動揺する。わたしはもう可哀想と思えずに沈黙を通す。彼は、果敢にも続ける。
「実はさあ、困ってるんだよ」
 とっさに作戦変更してくる彼をわたしは冷静に観察できている。観察? そう、観察だ。
「もしもし?」
 彼が初めて聞くような情けない声でそう言う。
「うん」
「おお……あれ、聞こえてたよね?」
「なにに困ってるの?」
 ちょっと強気なわたしで攻めてみる。
「ああ、あれだよあれ、いつもの」
「いつものじゃ、わからない」
「バカなの?」
 わたしは一気にムカムカしてくる。
「いっつもわたしのこと、そうやってバカ呼ばわりしてるよね?」
「えっ……」
「そんなに、偉いわけ?」
「いや……なんだよ、おかしいよ、どうしたんだよ」
「どうもしないけど」
 彼は反転攻勢にでる。
「いいの? それで」
「どういうこと?」
「自分が今なに言ってるかわかってんの?」
「わかってる」
「あっそう」
「いいかな? もう」
「なんだよそれ。チッ。いいよもう。いいよいいよ。いいかなってなんだよ。ふざけやがって。おまえみたいなブス、相手してもらえただけでも感謝するんだな」
 わたしは彼が電話を切る前に、切る。


 目覚めた朝は清々しかった。ベッドに腰掛け、目覚めに飲んだ一杯のミネラルウォーターが信じられないほど美味しかった。朝の陽射しがカーテンの隙間からキラキラしながら射し込んでいる。窓外から小さく子供たちのオハヨウを言い合う声が聞こえた。わたしはガラステーブルの前に正座をし、虫籠の中を身を屈めて透明ケース越しに見た。わたしのギシギシはいなかった。一応、蓋を開けてそこから覗き込んで見たけど、いなかった。わたしはふたたびベッドに腰掛ける。昨夜の、彼の言葉がよみがえる。彼の本性はなんとなくはわかっていたけれど、ルックスのカッコ良さの前ではすべてが無効化されていた。わたしはいったい誰に対抗心を燃やしていたのだろう。仮初の優越感に浸り切っていて、ずいぶん遠くまで流されていたことにわたしは気がつかないでいたのだ。きっとヨウコさんはわたしのそういうところをお見通しで、タイミングを見計らって助け船をだしてくれたのだろう。心の海が水平になった時、向こう岸からわたしの心のこちら岸に波は向かい、わたしはわたしへと戻ることができた。世界とつながるとはこういうことなのだと思った。誰かの波がわたしに、わたしの波が誰かに、ちゃんと届くことがそうなんだと。わたしは電源オフにしていたスマホをオンにした。着信が山ほどあった。彼からだった。どうやら一晩中かけていたようだ。わたしはえらく気持ちの良く感じるシャワーを浴びて、懐かしい風の薫るジャムパンの朝食をとった。会社に行く身支度を終えると、わたしは等身大の鏡の前に立ち、わたしに見せるためにとっておきの笑顔を浮かべた。


 


 

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