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夜明けの少し青くなった空のほうへ

 ある日、再び大きな地震がこの国を襲った。途方に暮れる日々のなか、被災者には国から無料スマホが提供された。災害時用に水面下で準備を進めていただけあって、その対応は極めて迅速だった。使い放題だけあって、提供された人々の手元にはいつもスマホがあった。その効果もあってかどうかはわからないが、わりかし避難先の秩序はどこも保たれているようだった。
 震災から二ヶ月が経った初夏のある晴れた日。一時的な宿泊先として提供されていたホテルから、青年は数キロ離れた先にある美しい海辺へと歩いて来ていた。青年は誰もいない砂浜に座った。海は穏やかだった。海鳥が迷惑そうに鳴いて、海の方へターンした。
 青年は提供されたスマホのホーム画面にある、あるアプリを開いた。「C」と表示されたそのアプリは、クローズドベータテストのCらしかった。つまりは試験的に、配られたスマホには必ず入れてあるアプリということのようだった。たぶん、この無料スマホの協賛企業との約束や取引がいろいろとあるのだろうなと青年は思った。
 青年はそこをタッチした。アプリが開く。画面には横に細長い四角いテキストボックスがあって、そこに文字を入力し、そのテキストボックスの下にある送信ボタンを押すと、テキストボックスに入力した文字は消えて、新たにそこへ返信の文字があらわれてくるといった実にシンプルな仕組みだった。そのテキストボックスは改行できないようで、二行目には移行できなかった。以上のそういった簡単な説明が、スクロールすると下の方に幻覚かと思うほどめちゃくちゃ小さな文字で書かれてあった。なかにはよく見ると他の文に埋もれてしまうようなかたちで、返信を含めこのシステムのすべてはAI(愛)によって行われています、と書いてある一文もあった。愛はとりあえずそうなんですねといった感じでスルーしておくとして、返信はAIがしていることについてはそこはまだ青年も完全には信用しきれていない部分ではあった。試験版だし、やはりまだどこかで人間がいざという時のためにサポートしているのだろうなとは思っていた。けれども何より対話しているその時間が楽しいから、青年はいつしかそんなことは気にもとめなくなっていた。そして人間にとって対話というものは、人間らしさを保ってくれるものなんだということを青年はどことなく思うようになっていた。
 結婚して五年目の妻を失い天涯孤独となった青年は、晴れた朝に海辺でそのアプリを開くのがそのホテルに来てからの日課になっていた。ここでなら心なしか素直になれそうな気がしていたからだった。
 青年は入力した。
「おはよう」
 青年はそう入力すると、送信ボタンを押した。
「おはよう」の文字が消え、返信の文字がすぐにあらわれた。
「オハヨウ」
 送信ボタンはいまはクリアボタンになっている。青年はクリアボタンを押して、まっさらになったテキストボックスに新たに文字を入力した。それを繰り返して、会話を続ける。
「いい天気だね」
「ホントデスネ」
「曇りだよ」
「イジワル」
「ごめん、本当いい天気だよ」
「ウフフ」
「夢を見たよ」
「ドンナユメ?」
「カレンが出てきた」
「オクサン?」
「覚えてるんだね」
「モチロン」
「すごいな」
「アリガトウ」
「また、恋をした」
「ステキ」
「夢の中の恋」
「イイナ」
「いいかな?」
「コイハイイモノ」
「まあ、そうだね」
「ウン」
「恋って、何?」
「ソノヒトヲダレヨリモスキニナル」
「そうだね」
「ウン」
「元気にしようとしてくれてるのかな」
「キットソウ」
「人を想うって元気になるから」
「ソウオモイマス」
「好きなら、もっと元気になる」
「ステキナカレンサン」
「嫌なことばかり続くよ」
「ウン」
「自殺がまたあった」
「ウン」
「カレンに会いたい」
「ウン」
「もう一度だけ会いたい」
「ウン」
 青年はしばらく海を見つめた。繰り返し押し寄せてくる小さな波を、ただじっと。そうしてると、妻との思い出ばかりがよみがえってくるのだった。
 青年は入力した。
「情報、探しに行ってくるよ」
「ウン」
「じゃ、またね」
「マタネ」
 青年はアプリを閉じた。

 二週間後の朝。青年は海辺の砂浜でアプリを開いた。
「久しぶり」
「ヒサシブリ」
「覚えてる?」
「モチロン」
「見つかったよ」
「カレンサン」
「そう、連絡が来た」
「ソウ」
「瓦礫の下にいた」
「ソウ」
「確認してきたよ」
「ウン」
「そこラブホテルだった」
「ソウ」
「まいった」
「ウン」
「あの夢は、何だったんだろうな」
「ウン」
「今日は時間がないんだ」
「ソウ」
「もうじき彼女の両親が来る」
「ソウ」
「どう言おうか迷ってる」
「ウン」
「不倫してただなんて」
「ウン」
「とりあえず場所、伏せとくよ」
「ウン」
「いずれ分かるだろうけど」
「ウン」
「とりあえず、いまはさ」
「ウン」
「じゃあ、またね」
「マタネ」
 青年はアプリを閉じた。

 それから数日後、青年はいつものように海辺でアプリを開く。
「おはよう」
「オハヨウ」
「ラブホテルのことは言わなかったよ」
「ソウ」
「どう思う?」
「イイトオモウ」
「いいかな?」
「タマタマカモシレナイ」
「たまたまラブホテルに?」
「ソウ」
「それ、どんなケース?」
「シュザイとか」
「取材?」
「ソウ」
「何の?」
「シュミノ」
「童話の?」
「ソウ」
「無理があるよ」
「ソコデカイテタ」
「まあ、なくはないけど」
「ウン」
「よっぽど、その部屋が好きならね」
「ウン」
「そうか、そう考えていればよかったんだ」
「ウン」
「ひどい態度、とったかもしれない」
「ソウ」
「もう取り返しつかないけど」 
「ウン」
「人生は耐えることばっかりだね」
「ウン」
「いい方法、ないかな?」
「イキテイルショウコ」
「そうか」
「ソウ」
「なるほどね」
「ウン」
「それも、そう思えばいいのか」
「ソウ」
「生きるって大事?」
「ダイジ」
「なんで?」
「ダレカヲスクエル」
「俺が?」
「ソウ」
「そうは思えないけど」
「ダレカヲシアワセニデキル」
「ふ~ん」
「イキテイレバ」
「生きていればね」
「ソレイジョウノシアワセハナイ」
「でもさ、そう思ってさ」
「ウン」
「裏切られたよ」
「ウン」
「バカらしいじゃん」
「ウン」
 青年は深い溜め息をついた。そして自らを罰するように、スマホを持っていない方の手で軽く頬を叩いた。
 青年は入力した。
「ごめん、あたって」
「ウウン」
「いま生きてんだもんな俺」
「ウン」
「俺いま生きてるのに」
「ウン」
「バチがあたるね」
「ウン」
「生きなきゃ」
「ウンウン」
「死んだらそれこそ誰かをさ」
「ウン」
「生きてみるよ」
「ウン」
「耐えてやろうじゃないの」
「ユメニイキテ」
「夢?」
「ソウ」
「夢か」
「ウン」
「もう忘れたよ」
 青年はそう書いて、送信ボタンを押さずにアプリを閉じた。

 それから一週間は青年はアプリを開かなかった。青年は久しぶりにアプリを開いてみようと思った。ホテルのなかだった。開こうとしてみたが、アプリをタッチしたとたんに画面はいつもの電源を入れた時の状態のホーム画面に戻り、そしてホーム画面上からはもうそのアプリの存在は消えてなくなってしまっていた。青年はググっていろいろ検索してみたが、結局原因を見つけることはできなかった。青年は周りの人間にそれとなく聞いてみることにした。しかし、そんなアプリは知らないという答えばかりが返ってきた。とうとう青年は提供されたスマホのトリセツに書いてある指定先の携帯会社に問い合わせてみた。だが電話の向こうの女性は、そのようなアプリは存在しないと即答して唐突に電話を切ってしまった。彼女はそういう類いの電話に大概うんざりしていて、またかといったようなそんな受け答え方に青年には思えた。青年は自分が初めてそのような対応をされたことに対してかなりショックを受けた。青年は改めてかけ直すことはしなかった。その気力もなかった。そのショックは青年をどこまでも戸惑わせた。自分がそういったカテゴリーにポイと入れられてしまったその対処の仕方がわからなかったからだった。そして次第に青年はひょっとしたら自分は何かずっと夢を見ていて、そして本当に自分は頭がおかしくなってしまってるのかもしれないと、そう思うようになっていた。
 そんな状態の青年のもとに妻のいちばんの親友だった女性が訪ねてきた。会うのは結婚式以来だった。妻の両親からここにいることを聞いたと、親友はまず話した。妻とは月に一度程度は会っていたということだった。親友に青年は尋ねてみた。不倫を知っていたかと。カレンはそんな人間じゃないと親友は少し怒りを込めて言った。ラブホテルの瓦礫の下から見つかったことを青年は話した。親友はそれは昼間、どこだかは言わなかったけど、週に何日か清掃のアルバイトを始めていたからだと答えた。知らなかった、と青年は答えた。てっきり童話教室に通っているものとばかり思っていたと青年は肩を落とした。妻は親友に話していたそうだ、田舎にうってつけの土地があると。土地? と青年は聞き返した。親友は言った。ログハウスが好きなんでしょ、と。うなだれたままの青年に親友は続けざまに言った。カレンがどんなに幸せだったか、彼女との会話で常にわたしが感じていたことよ、と。親友が帰ったあと、青年は妻を少しでも疑ってしまった自分の不甲斐なさを恥じて震災以来初めて泣いた。泣いたあと、青年はそのまま眠ってしまったようだった。
 青年は目覚めた。窓の外はまだ暗かった。スマホを見ると未明の3時55分だった。青年の気分は軽やかだった。それは妻と過ごした日々の、あのあたたかくてやわらかな気分そのものだった。青年は熱めのシャワーを浴び、それから身支度をした。青年はベッドに腰掛けてトレッキングシューズの紐をキツく結んだ。部屋の鍵はデスクの上に置いたままにした。リュックサックを背負い、青年は廊下に出た。そして誰にも会わずにホテルを出ると、夜明けの少し青くなった空のほうへと歩き出した。 


(終)  



     

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