大学時代の日記を公開します
週刊日記「水曜日の湯葉」がお休みのため、代わりに大学時代の日記を公開する。おもに学部生の後半、21〜22歳の頃である。大学名が特定できる部分は適宜編集したが、あとは原文ママである。
学生寮の自治会
いま住んでいる寮の自治会でぼくの職務怠慢が問題提起された。
自治会とかなんでそんな面倒な役を引き受けたのかと言えば、もちろん「給料が出るから」であるが、やはり金につられて本業とまったく関係ないことに手を出すのはよくない。そもそも寮を睡眠ステーションだと認識している人間が寮の仕事をやるのがちゃんちゃらおかしい。そして仕事をさぼりすぎたせいで減給の危機である。
もちろん僕にも言い分はある。
なにしろ寮生と管理の中間管理職だけに、理不尽な要求が多い。「粗大ゴミを放置する人がいるので対処してください」と言われたってコッソリ放置するんだから対処できないし、「規定時間外に風呂に入る人がいるようだから注意してください」と言われても誰だか分からないのでは注意も出来ない。
しかし、こういう場合は「無理です」とでも言っておけばいいのに、僕のよくないところは「はい、何とかします」と返事してしまうところである。「考えれば何かいいアイデアが出てくるだろう」と思っているのだ。もちろんそんなものは出てこないから何もしない。こうして「職務怠慢」認定されたというわけだ。
つまり「仕事の出来ない人」というのは、なにも能力の足りない人のことではなく、きちんと自分の能力を見極めていない人である、ということが現実では多いと思う。
特にプライドの高い人間は「不可能は禁句」と思ってたりするが、本業ならともかく小遣い稼ぎのつもりの仕事にそこまで気合いを入れられるのか冷静に考えてない場合が多い。「高学歴だけど仕事は出来ない」と言われる人はそういう場合が多いんでないかと。要注意だ。
配慮と因果関係について
昨日、ラーメンが食べられないという日本人に初めて会った。いや会ったのはずっと前だが、彼がラーメンが食べられないという話を昨日知った。みんなで「ラーメン食いに行こうぜ」ってなったときに困るという。
居酒屋では飲めない人のためにソフトドリンクも置くのに、ラーメン屋はラーメンを食べられない人に対する配慮が足りない傾向があると思う。他にも本屋には本が読めない人への配慮とか、自転車屋には自転車に乗れない人への配慮とか、メイド喫茶にはメイドを受け付けない人のための配慮があってもいいと思う。いや思わないけど。
あと、因果関係ってふつうは結果が原因より未来のことだけど、
「今日は夕焼けが綺麗だから、明日は晴れるだろう」
っていうときは、どちらかというと「明日晴れる」ということが原因で夕焼けが生じているような気がしなくもない。
「夕方ごろから雨が降るから、今日は傘を持っていこう。」
というのはどうだろう。これは未来の原因で現在の結果が出ているようだが、実際のところは「夕方から雨が降ると、現時点の状況から予想される」ということで未来原因ではないよね。
「原因」と「結果」って時間の概念を前提しないと定義できないのかな。だとすると純粋に論理的な概念ではなく物理の一種ということになるね。
読書について
今月は、書籍部で『文庫・新書を3冊以上まとめ買いすると15%OFF』というフェアをやっていたため、思わず15冊も買ってしまった。夏休みに頑張って消費せねば。
ちなみに最近僕の中で三島由紀夫フェア開催中。
二十代に突入してから1年ちょい経ったが、十代のころと比べた明らかな変化といえば、「読書するようになった」ということだ。実は僕はそれまで本なんて滅多に読まなかったのだ。大学に入って最初の1年間で読んだ本は、教科書と、あと村上春樹を2冊ほど読んだだけだが、今ではまあ月に10冊ぐらいは読むようになった。
なんでそんな劇的に変化したのかは僕も覚えていない。そして読書というのは音楽鑑賞と並んで「一人でやる趣味」の決定版なので、誰も僕のそんな劇的な変化には気づかない。こうなると本を読むことによって僕がどれくらい精神的に成長したのかいまいち分からない。
人間が自分の変化を実感するのには何が必要だろう?例えば知識の増加を考えてみよう。「覚えたての知識」というのは他人に語りたくなるものだ。他人からしてみれば文脈を無視した知識披露をされるのはやや迷惑だが、本人にとっては新しい知識を「語る」ことによって自分の中に定着させ、かつ自己の変化を認識できるという作用をもつ。
「他人に語る」=「他人に認識させる」ということは自身の変化を実感するのに最も有効な手段だ。ダイエット中の人は体重計の値の減少よりも人に「最近痩せた?」と言われるほうが成功の実感があるように。
そういう観点からも、読書、とくに小説を読むことによる成長というのはいまいち認識しにくい。そもそも小説についての話題を振って良さそうな友達というのをあまり知らないし、いたとしても小説について何を語れば良いのか分からないし、だいいち僕が欲しいのは「小説を読んだ実感」ではなく「読むことによる精神的変化の実感」なのでますます厄介だ。
しかし、いちいち成長を実感しないと何もする気にならないという性格も些か問題だと思う。こんな僕は長期的な努力に向いてない気がする。「時間の無駄でもいいから」読書する、というくらいの度胸は欲しい。
昨日見た夢の話
「ぬうっ、この味は!!」
「さっぱりとしていながらコクと深みがあり(中略)!!」
「バカな、卵は怪原先生と同じものを使っているはずが…」
「病岡はん、これは一体どんな茹で方を?」
「サーマルサイクラーを使いました。90℃に加熱→50℃に冷却を繰り返すことで、生卵の冷淡な味を損ねることなく、かつゆで卵の濃厚なコクを引き出せます。」
「なんとっ!あのPCRの機械をゆで卵に応用したというのか!」
「ハハ、怪原先生これは一本とられましたな!」
そんな夢を見た。嘘です。
ベッドにおけるカオスについて
「6月6日に雨ザーザー」とどこかの絵かき唄のような天気だが、僕は朝から少々ショックを受けている。
「朝、ベットから落ちた」
のだ。
自分で言うのもなんだが、僕は寝相の良さには自信があったのだ。そんなもんに自信持ってどうする、という感じだが。実家でも■■寮でも手すりのないベッドで寝ていたが一度も落ちたことがなかったし、部活の合宿ではあたかも棚のような幅の二段ベッド上段にも平気で寝たこともあるのだから、なんだか自分の信じていた能力を裏切られてすごく残念な気分である。
今回落ちた原因としては(なんだか受験の報告みたいだがそうではない)、僕のベッドは板ベッドの上に布団を載せるタイプなのだが、その布団自体がベッドからかなり横にズレていたことのようだ。これはおそらく敷いた際に布団にわずかなズレがあり、寝ている間に布団自体の重さで少しずつズレが大きくなり、ついには上に乗っていた僕を床に滑り落としたものだと思われる。
すなわち初期条件のわずかな違いが時間とともに指数関数的に拡大し、最終的にはベッド上の僕を滑り落とすというマクロな結果を引き起こすという、まさにカオスの世界である。(「カオス」とはこのような、初期条件のわずかな違いが大きな結果を生みだすような力学系をいう。)
考えてみると、■■寮の人は知っていると思うが、あの部屋には謎のくぼみがあって、そこにベッドが「差し込まれる」ような形になっているのだが、それはこういう「布団が滑り落ちない」という観点から意外と適切な処置なのではないだろうか。
教習所の適性検査
自動車の教習所から「適性検査の結果」というものがきた。IQテストと心理テストみたいなことをやらされたので、おおむね頭と性格の話が出てきたようだ。
良い点、悪い点とおぼしき記述をピックアップすると、
「状況判断の能力にすぐれている」「頭がスムーズに働く」「問題に対処する知的活動力がすぐれている」「環境変化の適応性が高い」
「情緒不安定」「自己中心的」「神経質」「社交的でない」「きまじめで融通がきかない」「人の気持ちを察することが不得手」
などといったことが書かれていた。要約すると「頭はいいけど性格が悪い」ということなんだろうか。しかし、「頭は悪いけど性格はいい」と言われるよりは、こっちのほうがずっと良い気がする。
例えば「社交的だけど頭が悪い」なんて言われたら、なんだか他人の能力に頼ってばかりの人間だと言われてるみたいだ。一方「社交性はないが頭は良い」なら、コネに頼らず実力で頑張ってるみたいな雰囲気になる。むしろ「社交性があって頭も良い」と言われるよりもカッコ良い気がする。
そういう観点から、この結果はほぼ僕の出て欲しいとおりの結果になっている感じだ。
どうもこういう自己診断テストのようなものは、「自分がどういう人間か」よりも「自分がどうありたいと願っているか」が出てくるものなのではないか、と思うことがある。
たとえば「こういう場合は席をゆずりますか?」的な質問があった場合は、受験者が実際にその人が席を譲るかどうかではなく、「ゆずりたい」と思うかどうかがで解答するわけだから、現実よりも願望のほうが如実に表れるのではないかと思う。
まあ心理テストをつくってるほうはそこまで計算に入れているのかも知れないから、なんとも言い難いが。
死後の世界について
電車の中の広告で、7年前に死んだ母にあてた手紙、というのがあった。(何の広告だったかは忘れた。一般に電車の車内広告というのは長い文章が多い気がする。)
「私もいつかそちらへ行きますんで、お父さんと待っててください」みたいなことを書いていた。
死後の世界って本当にあるんだろうか?
科学は神とか天国の存在を否定はしない。宗教との違いは、そういったものの存在を前提しなくても話が進むというだけだ。だから僕は天国や地獄があっても良いと思う。
しかし、死後の世界があったとして、そこに行った人はそのあとどうなるんだろうか。そこでまた死ぬのか、もう死なないのか。それっぽいものを何パターンか考えてみる。
(1) 死後の世界では永遠に死なない。つまり、死んだ人がどんどん蓄積されていく。
(2) 死後の世界でも死ぬ。そのあと、さらに死後の世界に行く。つまり n 番目の世界で死ぬと n+1 番目の世界に行く。
(3) 死後の世界では時間の概念が存在しない。従って、死後の世界に「その後」はない。
(4) 死後の世界は人によって違う。
まあどれもありそうだが、こういうことを議論するのは、死後の世界を信じる目的にはそぐわない。
つまり、死後の世界というのは、家族や友人など親しい人と死に別れた場合でも、またいつか会える、あるいは自分が死んでもその後がある、と信じることによって、現世での励みにするのが、こういう思想のコンセプトだと思うのだ。行った先で何をするかではなく、単に「存在するらしい」ということが重要なのだ。
例えば「夏休みもまだ2日ある」という事実は、単に8月末の物憂い気分を慰めるためのものであり、2日で朝顔の観察日記を完成させることを期待したものではないということだ。
自分は第何世代なのか
今朝、なんとなく
「地球最初の生命を第1世代とすると、ぼくは第何世代なんだろう?」
と思って計算することにした。
まあ「生命」の定義にもよるのだが、最初の生命はざっと38億年前に誕生したといわれる。
1世代20年とすれば2億世代ぐらいなのだが、原始の生命が1世代20年もかかるわけがない。そこで、大腸菌が適切な培養条件でだいたい1世代20分なので、これを原始生命の1世代とする。
で、現在のヒトは1世代20年くらいだから、「38億年で世代の長さが525600倍になった」といえる。
ここで簡単のため世代は等比数列的に伸びると仮定すると、問題は
「初項20分、末項20年、総和が38億年となる等比数列を求めよ」
という高校数学の問題になる。
実際に計算すると、公比は1.00000000526。(1と2億分の1)項数は25億となる。よって僕はだいたい第25億世代ということになる。
スピッツの『青春生き残りゲーム』という歌で
「百億世代続いた糸を切る」
という歌詞があるが、まあオーダーでは合ってる。
進路についての悩み
卒論がだいたい終わった。それなりの成果は出たが、ちっとも楽しくなかった。なぜだろう。研究者になることを随分楽しみにしていたはずなんだが。何が悪かったのだろう?
(1) 僕の取り組み方が悪かった
(2) テーマが悪かった
(3) 研究室が悪かった
(4) 「大学」という組織が悪かった
(5) 「研究」という仕事が悪かった
(6) そもそも「仕事」は楽しくない
可能性を考えればきりがない。
けど、何にせよ同じ研究室でもう2年過ごすことが確定なので、(3)〜(6)の場合は今後の2年間も楽しくないことになる。そりゃさすがに辛い。
そうなると、僕のこの2年間を「楽しく」過ごすためには、以下の2通りの方法がある。
(A) 研究に全精力を注いで、どうにか「楽しめる」ようにする。
(B) 修論がギリギリ書ける程度に研究し、それ以外の時間を楽しむ。
どう見ても僕の性格に合っているのは(B)である。その点うちの研究室はわりと放任主義なので良い。
ただ、本来的にニートな僕の性格を考えると、今後どのような職業に就いたとしても「仕事を楽しむ」というのは少々難しいかも知れない。一般的な日本人の人生はほとんど仕事なので、「仕事が楽しめない」ことはヒトとしての重大な欠陥なのかもしれない。そう考えるととても恐ろしい。
こんな調子で500日分ほどの日記がUSBメモリに保存されており、中には飲み会直後に書いたような酷いものもあればウラン型原子爆弾の仕組みを5000字解説した日記もあって「へぇー勉強になる」と思った。今回は比較的読みやすく、かつ僕の人間性が現れているものを抜粋した。
この頃にも小説は書いていたはずだが、分量にすると日記よりも遥かに少ないし、そちらのデータは見当たらなかった。自分はもともと小説よりも日記体質(そして日記にちょいちょいフィクションを入れる体質)の人間なのだろうと思う。
文章で生計を立てる身ですのでサポートをいただけるとたいへん嬉しいです。メッセージが思いつかない方は好きな食べ物を書いてください。