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木のぼり概念の忘却 ◆ 水曜日の湯葉147

近所の公園を散歩していると、10歳くらいの男の子が木のぼりをしているのが見えた。根本から二股に分かれた若い木を、間に挟まってなんとか登ろうとして、1メートルくらいで挫折して滑り降りる、ということを何度も繰り返していた。

それを見て僕は「木のぼり」という概念がこの世にあることを唐突に思い出した。日常生活で幾度となく木を見ているのに、「のぼる」というイメージがすっかり抜けていたのだ。これはかなり驚いた。というのは、僕は小さい頃、かなり積極的に木のぼりをする子どもだったからである。

子どものころ住んでいた町の公園に、樹齢百年くらいと思われる大きな広葉樹があった。普通そういう大きな木は枝がきちんと剪定されるので、とても子どもが登れるようなものではない。ところがその木は、なぜか低い枝の付け根が足を掛けられる程度に残っており、それが帽子掛けのように等間隔に続いていたため、かなり上のほうまでのぼれたのだ。

こういうイメージ

あらためて絵にしてみると「そんな木あるか?」という不自然さだが、記憶の上ではこうなっている。さすがに足場となる棒を後から差し込んだわけではないと思う。いくら子どもでもそのくらいは気づく。

夏になると中腹に葉が生い茂るので、外からはかなり見えづらかったと思う。いわば天然の秘密基地だった。そういう場所に腰掛けて、一方的に町を歩く人たちを眺めるのはなんとも言えない楽しみがあった。ブランコや滑り台で遊ぶ子どもたち、犬の散歩をする老人とかをぼーっと眺めていた。

今から考えるとあれは「のぼれる木にしよう」という意図をもって作られたものだ。剪定業者の判断か、それとも自治体とかもっと上のほうで「子どもがのぼれる木があるべき」という意思決定があったのか、なんにせよ誰かの「のぼらせよう」という意図が働いてこうなったのだと思う。

それにしても、なぜこうも「木のぼり」をすっかり忘れていられたのだろう。僕は今でも公園の滑り台やジャングルジムを見るたびに「登ってみたいが、大人なので控えておこう」と思っている。ブランコは人がいなければ結構乗る。しかし木を見て「のぼりたい」と思うことはない。木に「のぼらせる」という意図が存在していないからだ。そう考えると、自分はずいぶん受け身な欲求の持ち方をしているのがわかる。相手にそのつもりがなければ、ちゃんと忘れてしまえる。


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