見出し画像

真の深刻劇場はここでした、親子の絆って。未だ自問自答してます。 9

わかってほしい人にわかってもらえないのは誰のせい?

※アメブロで2014年に書いた「自分史」を加筆・再考し掲載しています。


旦那が亡くなったあと、
どんどん荒んでいく子どもたち。

ここからは「自分でした決断」の中でもとても大きな部分なのですが

そのときの決断が「よかったのかどうだったのかわからない」と思っていました。

正直今もわかりません。

振り返る中でわかるのは

はじめて、
「自分の人生を自分で舵を持ってみようとした」
ことなのかなと思います。

「人に左右されず、自分で決める」ことが
本当に、怖くて、そしてめんどうでした。

ただ。

当時の私は
まだ、そのように「自分で決めよう」としたときには

必ず両親から「応援されない」「選択を責められる」という現実をまだまだ作っていたのです。

今だったとしたらね、
両親にわかってもらえるように話したり
「独断で」「誰の意見も聞かず」なんて
ないだろうなあ…。

「物事は波風立てずに、人と調和してすすめることもできる」
って

ほんまに!

「そんなんないやろ」って「ホンキで」思っ
人生生きてのでした。

画像1

ある大雨の日
窓枠からポタポタと水が漏れていることに気づきました。

あれ・・・?
まさかの雨漏り?

長男が一歳のときに建てた一軒家。
まだ16年たっていませんでした。
雨漏りするにはちょっと早いんじゃないの汗

でも確かに雨漏りした。
壁がべちゃべちゃなんです。

「どうしよう・・・・」
直さないと、きっとヤバい。

でもそんなお金どうしたらいいのかわからない。
何とかしなきゃ・・・。

この家に執着していたわけではないのですが
この家にいる私なりの理由がありました。

近所に住んでいる両親を
いずれは私がこの家で面倒をみなきゃと思っていたのです。(見よう!ではありません)

いまだに元気なありがた~い両親なのですが、
そこは「二人姉妹の長女」の責任のようなものを勝手に感じておりました。

なのでこの家は必要だ、手放すわけにはいかない、と。

困った…。
直す方法も、どこに頼めばいいのかも
全く心あたりありませんでした。

おうちを建ててくれた会社は
倒産してなくなっていたのです。

私は夜、
母に電話してみることにしました。

不安で仕方なくって、
雨漏りした一件を誰かに「聞いてほしかった」のです。

「もしもし、おかあさん、今、いい?」

↑私は今、話していいかどうか、両親には特に伺ってから話しを始めるクセがついていました。

「いいよ」

と答えた母に私は、
この家にいつか両親を招きたいし住み続けたいけど、
今、こんなふうに雨漏りしてて、どうしようかと思ってる・・・・という話をしました。

母の話はこうでした。

「あんたなんかに老後みてもらおうなんて思ってない、
それくらいなら○○(私の妹)に見てもらうわ。

お父さんは知らんけどな。あんたの家なんて行くかいな」

邪険な言葉でした。

そっか。

なんだか悲しいような、ほっとしたような。

でも、「雨漏りのことをもっと聞いてほしかったな。」
と思いながら、しっくりしない気持ちで電話を切りました。

画像2

次の日の朝は土曜日。

私は朝からPTAの会合にいくために準備を始めていました。

バタン!
突然ものすごい音をたてて家に入ってきたのは母親でした。

急にはいってきたことも驚きましたが、
母は、家の中を歩き回り大声で怒鳴るのです。
そして、雨漏りをしたところを見て戻ってきたあと、

こう言うのです。

「こんなん(雨漏りのあと)たいしたことないやん!

モルタル塗ったら直るねん!

なんでこんなのも自分で直そうとか思わへんの?

モルタル塗り、モルタル!」

完全な怒り口調。
昔から母に厳しく言われると必ずものすごく萎縮する私は
その突然さも加わって完全にパニくりました。

さらに、
会合の時間に間に合うように行くために、ちょっと焦っていたところに
完全に怒り口調にしか聞こえない言葉に狼狽しながらも

「そうなんや、わかったー」とだけ言いました。

母はさらに続けました。

「あんた、わかってんの?モルタルやねん、モルタル!
え?モルタルって知らんやろ?
知らんくせに塗るん?
なんもしらんねんな、ふーん」

「…」

母は急ぐのと、突然投げつけられた言葉に泣きそうになる私にさらにきつい口調で言葉を浴びせます。

黙ったまま、私は被害者スイッチをオンにしていました。

なんで、なんで
わたしはいろんなことでいっぱいいっぱいなのに

ただ、家を守りたいだけ(あなたたちのために)なのに

そして
どうして私がなにか決めようとしたときに
いつもいつも怒り口調で責められるのはどうして

なん?

でも、言いませんでした。
幼いころから、なにか言おうとすると
叩かれるか、押さえつけて関係ないことまで持ち出されることが「日常」だったからです。

「言わない」「黙って(内緒で)やる」
「同意は無理」「強引にすすめる」
これが、わたしの世界でした。

△▼△▼△▼△▼△▼

私のでかける時間が迫っていました。

涙をこらえて支度をする私に
母は家の中の惨状を見て

「あんたがしっかりしないから・・・・」と
言い始めました。

もう、いい・・・・
ほんとに黙っててほしい。

横にいた次男は一言も言わずその状況をみていました。

「もう、帰って・・・・」

ようやく言った言葉に母は
「ああ、言われんでもかえるけどな、ほら!」

母はビニール袋に入った柿を床にポンと置いて帰っていきました。

私は

そのビニールごと思いっきりゴミ箱の中に投げ捨てました。

画像3

すごい自分史やなあ。
(ヒトゴトのように)

幼いころから
両親(特に母)がずっと怖かったです。

私がなにかしようと思うとき
こうやってみたいと相談するとき

かならず両親は力づくで抑え込もうとする。
思うどおりにならない限りはどんな方法をとっても
いうなりにしようとする。

そんな関係でした。

反発も反抗もしてきたものの
次第に反発することにも疲れてて

言うことを聞いているふりをしたり
嘘をついたり。

そんなことを
ずっとずっと小さいころからしていた記憶があります。

母に言われた言葉に傷つき
父さえも服従させる母に「恐れ」を抱いていましたが

実は大人になった私も
まさにそのときのイメージそのままの母を演じていたし
そうなったのも母のせいだと思っていました。

両親への「恐れ」のせいにして
自分で自分の人生の舵をとることを殆どしてないまま大人になった私。

「親のせい」という部分を拭えないまま。
もちろん親への感謝なんて全く感じないままなので

「理解してほしい人にわかってもらえない」という現状を
たくさんたくさん、味わうことになっても

どうしてなのか
さっぱりわからないまま

「かわいそうなあたし」劇場にひたすら立ってたわけです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?