シティ・オブ・ハイレゾリューション

画像1

2月14日朝、六本松の自宅を出て白金にある『マヌコーヒー クジラ店』へ向かう。自転車だと10分もかからない距離だ。前の週末は日中20℃近い陽気ですっかり春かと思っていたのに、ここ数日はまた寒さがぶり返してきた。頬に当たる風が冷たい。

「白金・高砂、平尾、薬院エリアを歩くときにふと気付けるような、フクオカの人が知らない、街のことを書いてください」

そんな連絡をもらったのは少し前のこと。これらの地域に特別詳しいわけではなかったが、同じページで写真を撮るのが旧知である写真家の名越啓介であることもあり、ふたつ返事で快諾した。福岡に住みだして2年半。この街について捉え直すにはいい機会かもしれない。

店で名越と合流。会うのはほぼ1年ぶりだろうか。以前から何度も仕事をしたことがあり、4年ほど前にはとあるブランドブックの撮影のため、中国黒竜江省まで行って大麻畑を撮影した。帰りの上海でベロベロに酔っ払い、別の部屋を取っていたにも関わらず同じ部屋で寝ていたこともあった。

久しぶりのあいさつもそこそこに、『マヌコーヒー』を出て、高砂方面へ足を進める。白金の北東、日赤通りに挟まれた形で横たわる地域が高砂だ。このエリアにはとにかくコーヒー屋が多い。有名どころの『REC COFFEE』、『COFFEE COUNTY』に始まり、『Good up Coffee』に『Pin』、『area coffee』などなど。城南線沿いにある東映ホテルの一画にも新しい店がオープンするらしい。局所的にこれだけのコーヒー屋が出店している状況について、以前友人が「福岡ははしご酒の文化があるから、コーヒー屋もはしごする人が多い」といっていた。コーヒーなんてそうそう何杯も飲めないだろうと話半分に聞いていたが、たかだが1周3㎞程度の範囲にこれだけのコーヒー屋があることを考えると、その説もあながち否定できない。

「このへんは意外と古い建物もあるんですねえ。奥の方に結構古い家が見えます」

曇りがちだった空の隙間、陽光が少しずつ地面を照らし出してきた中、パシャパシャとシャッターを切りながら名越が言った。確かに新しいビルの間、ときおり昭和初期ごろに建てられたとおぼしき民家が見える。コーヒー屋やギャラリーが入っている建物も古い建物を改修したものが多い。

高砂から平尾へ。高宮通りの平尾北交差点を抜け、歩いていくと出くわす三叉路が山荘通り交差点だ。このまま西へ行くと、幕末期に平野国臣や高杉晋作ら勤王の志士を庇護した野村望東尼が隠棲していた平尾山荘にたどり着く。

平尾山荘といえば近くに「山荘町」という地名があるが、実は住所が3丁目しか存在しない。1971年までは1丁目から3丁目まであったが、翌年の区画整理により、1、2丁目はほかの住所に変更されてしまった。山荘通3丁目も新たな地名となるはずだったが、「山荘通」の名称を残したいという地元の要望があり、そこだけそのまま残され今に至っている。杓子定規な対応がお家芸ともいえるお役所だが、その初志を貫徹できなかった名残が地名に表れているのがなんとも滑稽だ。

特に目的地を決めていなかった今回の散策だが、一箇所だけ行きたいと思っていた場所があった。それが平尾3丁目付近にあるラブホテル街だ。平尾・薬院あたりで飲んだ帰り道にふと高台へ目を向けたとき、そこにはいつも燦々と存在感をあらわにするラブホテルの店名―〈tabasa LATIN〉、〈HOTEL Japan〉、〈HOTEL chez moi〉―があった。ただ、いつも遠目にその名を眺めるだけで、近くまで行ってみたことがなかったのだ。

ラブホテル街へ向かうべく、ゆるやかな坂道を上って平尾3丁目の方向を目指す。太陽が高度を上げるに従い、気温が少しずつ上がってきた。羽織っていたコートを脱ぎ、歩みを進める。すると次々に宗教施設が姿を現してきた。平尾4丁目の円龍寺と平尾八幡宮、平尾3丁目の光専寺だ。

江戸時代から周辺に社寺が集まっていたことも関係しているのだろう。古くからこの一帯にはたくさんの墓地があった。その中には身元の分からない遊女のものと見られる無縁墓も多くあり、近代以降の区画整理の際、200基ほどの無縁墓が付近の寺の納骨堂に納められた。墓の跡地は売りに出してもなかなか買い手がつかず放置されていたが、その後マンションなどの集合住宅が建てられたのだという。

「ごうんごうん」

大量のタオルとシーツを洗う洗濯機の音があちこちから聞こえる。実際に来てみると、ホテルは全部で6つ。どのホテルもその名に恥じない趣向を凝らしたあしらいを施している。秀逸なのが〈tabasa LATIN〉で、入り口上部の壁部分にギリシャ建築風の彫刻を配し、その真ん中にゴシック体で2mほどの大きさの巨大な「t」がくっついている。一方、建物全体の面構えが抜群にいいのが〈HOTEL Japan〉だ。軍艦のように突き出たテラスにアドリア海のホテルを彷彿とさせる白亜の壁面。申し訳程度に付けられたコリント式の柱が趣を添える。1階部分のビニール製サンシェードは白緑ストライプのレアル・べティス風なのでスペインだが、「地中海」という括りでは一応理にかなっている。ただ、ホテルの眼下に広がるのは壮大なジブラルタル海峡……ではなく墓地だ。区画整理で付近の納骨堂に納められた無縁墓だが、そのすべてが撤去されたわけではなかったのだ。

ラブホテルに墓地。愛と死の二項対立を儚さで包んだ〈HOTEL Japan〉横を下り、最初の交差点を左へ。そのまま進むと薬院交番前交差点に出てきた。目の前を通る浄水通りを左に行けば福岡市九電記念体育館が姿をあらわす。

九電体育館が創設されたのは1964年。「女学生用セーラー服発祥の学校」として有名な福岡女学院の跡地に建てられた。当初は九州電力が運営する体育館だったが、2003年に建物が福岡市に無償譲渡され、市営の体育館になった。建物の老朽化に加え、福岡アイランドシティに福岡市総合体育館が完成したことにより、2019年3月末をもって惜しまれながら閉館となる。跡地は隣にあった九州エネルギー館(2014年閉館)とともに積水ハウスに売却され、1000戸規模の分譲マンションになる。

この街は今まさに更新の途上にある。

広くない範囲の中に生活に必要な諸機能が近接していることから、「コンパクトシティ」といわれることが多い福岡だが、実際に暮らしていて感じる印象は少し違う。

東京から移り住んでしばらく、平尾や薬院と言われてもそれがどこのどんな場所なのか分からず、こともなげに地名を使いこなす友人たちの会話―「平尾に新しくできた◯◯は、警固の□□で働いていた人の店」「□□といえばあそこの大将は××の店出身」「××なら△△に移動した」―についていくのに苦労した。福岡に住む人たちにとっては知っていて当然のことでも、その内容を咀嚼する上で前提となる町々の時間的・地理的な文脈が多すぎて理解が追いつかなかったのだ。東京ではそんなことはなかった。線路と駅を起点として町が線状に連なっている東京に対し、福岡の町は近世以降に形成された区画を基本として面状に形づくられているため、町のつながりが複雑なこともあるかもしれない。ただそれ以上に、「場所」に対する話題の多さと深度が圧倒的に違っていた。当時を思い起こしふと思う。この街を特徴付けているのはコンパクトにまとまった都市機能ではなく、土地に蓄積された情報の量であり、それを理解し使いこなす住民なのではないかと。その点でいえば、福岡はむしろ「解像度が高い街」なのだ。

今日もこの街では町の話が飛び交い、地脈と結びついて人々の脳内に共有される。共有された情報は新たな養分となってその場に染み入り、次なる記憶の新たな土壌となるのだろう。

城南線を薬院駅方面へ歩き、出発地の『マヌコーヒー』へ戻る。朝はくすんでいた街の色が少しだけ鮮明に見えた。

※参考文献 柳猛直「町名物語 ルーツわが町(薬院―四丁目)」『フクニチ新聞』連載(1985-86)/柳猛直「町名物語 ルーツわが町(南公園、小笹、平尾)」『フクニチ新聞』連載(1986)/「角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三編『角川日本地名大辞典 40 福岡県』角川書店(1988)/有限会社平凡社地方資料センター編『日本歴史地名大系 第四一巻 福岡県の地名』平凡社(2004)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?