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ゆきてかえりし、けやき通り。 ―存在するのにたどり着けなかった場所―

国道202号線の途中、国体道路の中ほど。
けやき通りの名称で親しまれる街路で見つけた「路地裏」。

六本松に漂う在りし日の残り香を求めて。

「路地裏はやさしい」

小学2年生のころ、父親に薦められ『お父さんのバックドロップ』を読んで以降、小中高と長らくぼくの人格形成に大いなる影響を与えてきた中島らもはそう言った。

といったってその言葉を読んだ小学6年生当時、ぼくが生きる世界に「路地裏」はなかった。学校から帰宅し、いくところといえば友だちの家か公園ぐらいのもの。酔っ払いやゆくあてのない人を包み込む「やさしい」場所とはどんなものなのか。足りない経験を想像で補いながら、妄想をふくらませるのがせいぜいだった。あれから20年余りが過ぎ、ぼくは今福岡に住んでいる。

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六本松の自宅から徒歩5分ほどの場所に京極街はある。古びた2階建ての家屋2棟を中心に構成された一角。夜の暗闇をバーやスナック、焼き鳥屋の看板が照らし出す光景は、まさに「場末の見本市」といった風情だ。

六本松にはもともと九州大学のキャンパスがあり、周囲には金のない学生向けの安い飲み屋が乱立していた。ただ、2009年に伊都地区へ移転するのに伴って、六本松キャンパスは閉鎖。その後、広大な跡地は売却され、再開発されることになった。昨年9月には複合商業施設の『六本松421』がオープンし、今でもあちこちで工事が行われている。着々と開発が進められていく中、学生街だった六本松の雰囲気を今でも色濃く残す場所。それが京極街だ。実際に付近を歩いてみると、周囲を高いビルがとり囲み、京極街の上にだけ空間が広がっていることがわかる。空との距離感が違うその様子は、都市にぽっかりと空いたエアポケットのようだ。

京極街のある六本松から護國神社の横を抜け、けやき通りへ。博多から長崎まで続く国道202号線。そのうち、1948年に福岡で第3回国体が開かれた際に整備されたのが祇園から大濠に続く国体道路で、さらにその一部、護國神社から警固までの1km弱をけやき通りと呼ぶ。どうしてひとつの道路の名称をわざわざ入れ子構造的に変えるのだろう。福岡に越してきたばかりのころはぱっと名前が出てこなくて苦労した。でも歩道沿いに植えられた約100本のけやきが堂々と陽の光の下並ぶ様子を見ていると、ここに住む住民たちがある種の誇りを胸に、表通りを「けやき通り」と呼び出した気持ちもわかる気がする。

キリシタン話に花咲く赤坂は雨。

昼間とはうって変わり、人通りの少ないけやき通りを歩いているとコートに雨が落ちてきた。警固方面へ急ぎ歩を進める。本屋を左手に道路を挟んだ向かいにあるコンクリートづくりのビル。奥にある階段を3階まで上がるとそこが『BAR Note』だ。

いつからここへ来るようになったのかはよく覚えていない。湿気を帯びた店のドアを開けると、あちこちにヴィンテージオーディオがうず高く積み上げられ、奥にはマスターの亡くなったお兄さんが16歳のときに描いたという古い船の絵が飾られている。オーディオはどれもマニア垂涎の歴史的品らしいが、詳しいことは知らない。ぼくがもっぱら興味を持っているのはマスターだ。

聞くところによると1961年福岡生まれ。地元の高校を卒業後単身NYへ渡り、そこでジャズミュージシャンの家を間借りしながら当時のジャズシーンを体感。その後、ヨーロッパに移って、イギリスの大学で社会学を学んでいたという。90年代後半ごろからたびたび日本へ帰国するようになり、2001年にこの店をオープンした。

ぼくが店に顔を出すのはたいてい夜中だ。そこでマスターの膨大な知識に裏打ちされた途方もない歴史の話に耳を傾ける。この前聞いたのは、禅僧からクリスチャンに改宗し、最終的にはそのキリシタンの信仰さえ棄てた16世紀末の日本人宗教者の話だった。どんな角度から話題が飛んでくるかわからないスリルを楽しみつつ、どでかいスピーカーから流れる古い音楽に身を包まれて、次の場所に向かうまでの束の間を過ごすのだ。

ぼくねえ、時間が経てば経つほど味が出るお店ってあると思うんですよ。置いてあるモノとか、使っている建材とかにしてもね。だからたとえば20年経ったときに、ボロっちくなってるよりも、かっこいいな、なんか味が出てきたなっていうふうな場所にしたかったね。そういう意味では、思っていた風になってきたかなって思うね。

当初は文化人が集まるサロンみたいな場所にしたいと思っていたけど、お客さんを選んでいるわけではないし、来てみたらみんな一緒ですよ。いろんな職業の人が来るけれど、結局は一人の人間だなって思う。自立した人間であればどんな人でも違いはないです。仕事に違いはあれど、あるのは単なる役割の違いなだけで。

今後は本を書きたいですね。実は昔からのことはずーっとノートに書き貯めているんですよ。結構マジに書いてるんです。NYに住んでいたときの体験を小説にしてるんです。ほら、これは1982年からのやつ。同じようなのがもう何十冊かありますよ。これを書いたのは10年近く前かな。その後は隠れキリシタンにいっちゃった(笑)。隠れキリシタンを7、8年くらい調べてたの。大分とか長崎とかに通って、随分調べましたよ。

なぜ隠れキリシタンか? それはねえ。日本と西洋がはじめて邂逅したのが宣教師だったから。種子島へポルトガル人がはじめて漂着したのが1543年。で1549年にザビエルが来たでしょ。日本の伝統と向こうの伝統がはじめてぶつかったそのファーストコンタクトにすごい興味があったんです。「なんでこうなっているんだろう?」っていうひとつの社会現象があったとして、どういう過去の現象が現在につながっているのか、歴史的な経緯っていうのはどうしたって知りたくなりますよね。今を知るために歴史を知るっていうことかな。
(BAR Note マスター)

実家感じる警固アンダーグラウンド。

『BAR Note』を出て、雨上がりのけやき通りをゆく。警固四つ角の南西に位置するビルの地下に、今夜の最終目的地『SNACK くのいち』がある(福岡にはなぜか「◯つ角」という名称の交差点が多い。薬院六つ角、野間四つ角といった具合だ)。隅に積まれた土のう袋をよけて下へ続く階段を降り、赤い字で「女」と書かれた看板の下、喫茶店のようなたたずまいのドアをくぐる。間髪入れずママの「いらっしゃーい!」という声が響き渡る。手渡されたおしぼりの匂いを嗅ぐと、なんだか安心する自分がいる。

ここの料金システムは明快だ。時間制限なしの飲み放題、歌い放題でひとり3000円。4年前まではワンドリンクにちょっとした料理がついてセット料金2000円、カラオケは1曲100円だった。料金の思い切った改定ぶりには驚かされるが、今はさらに手作りのおかずが食べ放題。唐揚げや卵焼き、ミートボールに魚の煮付けなど、定食でいえば主役級のおかずを心ゆくまで食べることができる。正月七日には七草粥、節分には太巻きと、季節の節目には行事食を出してくれるのもうれしい。

カウンターからぐるりと店を見渡すと、ダルマやしゃもじといった縁起物に、観光名所で売っている提灯、マスターが釣りをしている写真など、脈絡の抜け落ちた品々があちこちに飾ってある。実家とはまったく違う雰囲気なのに、かえってきたような心持ちになるのはなぜだろう。ぼんやり考えているとママがなにかをうながしてきた。ぼくの歌う番がきたらしい。桜の花が挿してある花瓶の横に隠れていたマイクを手に取り、歌いはじめに備えて大きく息を吸い込んだ。

ここらへんでまず変わったといったらマンションだらけ。けやき通りとかあんなマンションなかったって。普通の家があって、洋服屋さんがあったり、小物屋さんがあったりそんなのが結構ずーっとね。今はもうなくなって全部マンションになったとって。お店も長続きせん。警固は昔なんてなんもなかったけんねえ。ビル自体がなかった。普通の家やった。マンションができだしてね、けやき通りって名前ができたんよ。四つ角から護國神社の手前までね。もうどのくらいなるやろか。

昔の常連さんは半分以上死んどんしゃあね。みんな亡くなりんしゃった。それで一時期景気が悪うなったね。みんな会社の人が定年になったり、2年ぐらいね。ちょっと不景気になったね。会社みんな定年あるやん。ほとんどもう年金生活やもんね。その歳したら、もう亡くなっとんしゃろうけどねえ。

でもまただんだんちょっとまた盛り上がってきて。やっぱ繋がりがあったね。それとやっぱ口コミもあったしね。今もインターネットとかに情報はないからほとんど口コミよ。誰かが言ってここに来て、また誰かに声かけてくれてね。それでだんだん新しいお客さんが来てね。

うちはたぶんここらで一番古いスナック。お店自体は昭和45年にできて、3年目の48年からわたしがオーナー。スナックは中洲にほとんどあったけど、みんなやめんしゃった。今でも一軒知った人がおりんしゃあけど、もうやめようかと思うよーって言いんしゃあもん。やから『くのいち』が警固のヌシになっとんっちゃ(笑)。お客さんが「警固の番長やろ」っていいんしゃあもん。やっぱりね、おべんちゃら使わない、ウソつかない、地でいくのが大事。楽しゅう、おいしゅう飲んだほうがよかろうが。ねえ。
(SNACK くのいち ママ)

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あのころからずいぶんと時間が経った。高校、大学と、休みを見つけてはあちこち旅行するようになったのも、突き詰めれば妄想していた場所を追っていたのかもしれない。ただ、編集者として東京で働くようになり、ぼくの路地裏趣味はいつの間にかネタ探しの手段に収斂されていった。それが最近、福岡に住むようになり、気に入った店を見つけては出入りするうち、遠くへ置いたままになっていた感覚が少しずつ溶け出しててきたのを感じる。探していた「やさしい路地裏」はここにあったのだ。

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