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無常であること

「無常」と聞くと
なにか難しく古い概念だったり、
スピリチュアルや仏教国の言葉
のように聞こえます。


私も以前はそんなイメージでした。


ここでは、「無常」という概念を
正しく理解することが、どうやら鍵になるようです。

この10日間コースでは、
1日の終わりに講話の時間があり
「無常」という
この世の真理について、頭で理解していきます。

真理とは、(本当のこと、真実の道理) という意味を指します。



少し自然学・物理学的な話になるのですが、
あまり構えずに聞いてもらいたいです。


この地球、宇宙の全てのものを
限りなくズームして見ていくと、
全ての物質は 素粒子という物質で出来ていることが
科学の研究で、明らかになっています。


そしてその素粒子は常に見えない速さで、
(1/ 10,000,000,000,000,000,000,000 の速さ! )
生まれては消え、生まれては消えを
繰り返していて、


これは宇宙上、地球上、
全生命、全物質
全てのものに当てはまり

私たちの体の中の細胞内でも同じように
この見えない速さで、物質が
生まれては消え、
生まれては消え去っています。


人類も動物も植物も
全ての物質が同じように、
生まれては消え、
光の速さで変化し続けています。



同じ川で水浴びしたとしても

15分前に入った川と
これから入る川では、

たとえ同じ名前の川だったとしても
それは既に別の水が流れており、



昨日の自分と今日の自分、

例え同じベッドで寝ていて、
同じ服を着ていたとしても

人は皆、常に変化し
一分一秒 死に向かって 一歩一歩
歩んでいるのです。



変わらない物などなく
全てが変わり、変化していく

この現実を受け入れなければなりません。

これはこの自然界の真理であり、
全ての生命に平等に訪れる、
「生まれては消える」と言う自然の法


これが無常という言葉の意味 です。




この瞑想をしていると
自分の中で、確実な気付きがあり、
それがこの無常であることです。



初めて座り始めたとき
足に痛みが生じ、
どんどん痛みも増してきて、
あぁ、もう限界だと思ったその頃に
「ボーーーン」
鐘が鳴って瞑想が終わり
足の痛みもどこか消え去ります。


どんなにこの修行が辛くても
10日間後にはコースも終わり、
また日常がやってくる。


やがて変わりゆくものに
嫌悪し、渇望し、その反応の癖を育み、
人は知らずのうちに
執着をたくさん蓄えていることに気付きます。


全てが移り変わるというものに
執着することは無意味なことにも関わらず、
なぜか執着を増やしていくのです。





私は、
この無常という自然界のルールを理解した時、
少しは生きるのが楽になった気がしました。
そしてなんて、人生は儚くて美しいものなのだと感じました。



全てのものは生まれて、やがて消える。







自然を学ぶことは
無常を理解するための、
良い手助けになると私は思います。

私がAustraliaを好きなのも、その理由のひとつで
この大自然にいると、

なぜ波は起きるのか、なぜ鳥は鳴くのか、
などと言った 子供が気になるようなことを本気で考えたり、


台風が来る前ぶれ とか 生き物の生態系や生息地
などなどを、実際に自然に触れて知ることができ、
私にとっては癒しの場所でもあり、
学びの場所でもあります。





そうは言っても、無常を頭で理解したからと言って、
それを実際の生活や生き方にしていくのはなかなか難しく、
人はすぐに忘れてしまいます。



そこで日常的に自分を観察します。


瞑想をしていると、さっきまで痒かった身体の場所が
数分後にはもうどこかへ消え去り、
さっきまで感じていた感覚も場所が変わっています。
永遠とその感覚が続く事はない
全ての感覚は生まれて消え去っていくだけ



すごく変な話なのですが、
ヴィパッサナー瞑想をして身体の感覚を観察していると、
電流のようなものを感じることがあり、

この電流が走る感覚に対しても、
「中毒になってはいけない、渇望を持ってはいけない」
と教わります。
コースに参加したことがある人は分かるかもしれません。



この「無常」という自然の真理を、科学者は知識を持って発見しましたが、
ブッダは自分の身体を観察し続け、これに気が付きました。

その後「ブッダ」という名前や「仏教」という宗派の名前だけが先走り、
教祖を崇めた方がわかりやすいと人々が宗教化してしまい、
このヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)という生きる技を伝えられずに、枝分かれした仏教に属してるという人も増えていきました。

ですがブッダは神でも宣教師でもなく、実在した人間で、
遺骨も見つかっています。



この瞑想法はどんな宗教に属していても、
自分の中にどんな崇める神がいても、
磨くことが出来るスキルなのです。
私は「走る」や「泳ぐ」と同じような感覚でやってみたら
良いのではないかと思います。


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