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なんか嫌、は絶好のチャンス…(?)

少し最近紐が解けてきたような自分自身の考えがひとつあったのでここに書いてみます、

わたしはこれまで自分は人を嫌うことがない、と自分自身思ってたんです 嫌な人って聞いた時になんだかどこかピンとこなくてこないどころかもやもやして

おいおいそれは偽善だよ

でもこんなこと思ったり言ったしてるとそんな声も頭によぎるんです、そりゃ当たり前です
嫌いとか無理、そんな感じの感覚を持ったことがないなんて偽善にみえます
天使を演じてるみたいにもみえてきます

そんなんだと詐欺に引っかかるよ笑
も確かに、と思いつつ誰でも彼でも信用する、ということともまた違う感じがして、

それで考え続けてきていました

“自分は偽善者なのかもしれない”

そう思えばそう思えてしまう、
自分の正体を知りたくて
自分自身を疑って自分の思考回路について悶々と考え続けていました
そしたらひとつだけ少しこたえに近いようなものがでてきて、

嫌いな人がいないなって思うことは
別に自分の感情に蓋をしている訳でも
嘘をついて好きって痩せ我慢してる訳でもなく
反射的にうっ…とか、ん…?とかえっ…とか感じることはある
気まずいなぁ、ひどいなあ、苦しいなぁ、嫌だ!
そんな感情はおおいに感じているはずで

でもそのすぐ後にくるのが
なんでそう感じたのかを頭の中で分析すること、でそれが好き、というかついついやってしまっていること

なんでこの人に対して嫌って感じるんだろう
それはどんな場面で、どんなことばや仕草、表情が私にその感情を抱かせたんだろう
その時の自分の調子はどうだったっけ、直前までどんな気持ちだったっけ
その嫌の正体はみんなが瞬間的に感じるかそれとも自分だけが強く感じてるのか、
みんなが感じてるならどうしてそう感じるのか、自分だけならどうして、
何がその人にその行動をすることを選ばせたのか選んだのか(意識的、無意識的にも)

そんなこんな考えてたら
どうやらその一瞬の”嫌”のきもちや行動を見ただけじゃそのこたえを考えるにはどうも情報が足りなすぎることに気づく

もっとその人をみてみたい、その人の生き方を..とか情報収集で掘っているうちに
結局だんだんその人のいろんな面に出会ってしまって
その人にとっての楽しいこと、とかこれが好きなんだなって瞬間とか、生き方とか考え方とか
いろんな琴線に触れさせてもらえばもらうほど
その人の”嫌”なところに
その”ひと”の存在の唯一無二のおもしろさが上回っていっちゃうというか

〇〇な部分はあるけどね、この人ってこんなところもあって、、とプレゼンしたくなるような
そんな人ばかり
周りには癖の溢れた人ばかり

人はみんなそうなんじゃないかなと思ったりするんです
嫌と感じる部分、合わないって感じる部分
綺麗といわれる部分、汚いといわれる部分
いろんなものを持ち合わせてて

嫌いな人、相性が悪い、〇〇はそういう奴だから、と言うそのもうちょっと奥をみてみたい
それはその人のまだまだ一面にすぎないからとか思ったりする

だからわたしはその人に向いた
自分の瞬間的感覚的な”嫌”という感情を
その人を知る”チャンス”として捉えているのかもしれない
人だけじゃなくても、

わ!この人素敵、っていう憧れの瞬間とか
わかる〜!っていう共感のわくわく感と同じくらい
ん…? 引っかかるな、微妙だな、の瞬間を大事にすることって大切だとわたしは思っています

“居心地の良さが全てでもないと思う
苦手こそ面白い”
とかぼそっとカッコつけた中学校の時のメモが残ってました 
でも考え方としては多分今も変わらない

考えすぎであるかもしれないし
疲れるやり方かもしれないし

愚痴を吐いたって悪口をいったって
そんなことはあります
それでも
いろんなその人の一面をこの目で感覚で、みたら
最終的に

嫌い、じゃないよな
ってところに着地する
ただそれだけだなぁと

この内容がどう見えるか、とか結局みんなもそう思ってる
とかわたしは自分しか味わったことがないのでいま知らないのですが

良し悪しとかの尺でなく
自分が嫌いな人がいない、とことばにする
理由はここにあると思います

そういえば臨床心理でも似たように転移、逆転移という考え方があると習ってとても心がドキドキしました📚

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