3.12の日常から思い出すこと

昨日の3月11日は、大切な家族と過ごすことを優先して1日が終わりました。素敵な1日でした。

会社で働いている時は、なぜか3月11日には僕が朝礼をする時だったりして、なぜか思い出しながら、宮崎でもみんなに話しをしたりしてた。

2011年3月11日を忘れたわけではなくて、だからこそ今の僕がいるでもあって、3.12だからこそあの時なにをしていたかを思い出してみる。

以前のブログに当日と翌日を振り返って書いた記事を読み直して、あの時感じたことを再確認。2011年は年初からインドに旅にでて、帰国し、カヤックに参加するタイミングで鎌倉に通ってる毎日でした。

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3月11日

夕方から2件のアポがあり、鎌倉駅を横須賀線にのり北鎌倉駅に到着する寸前。

「なんか、いつもよりゆれるなぁ」

「あ、地震か」

って軽い感覚だった。

北鎌倉でちょっと停止。

「ま、すぐ動くだろーな」

グラ、グラグラ

思いの外揺れる。

周りにいた鎌倉の小学生たちがグループで大騒ぎし始める。

周りの大人と目を合わせて、

「まぁ、しょうがないですよね。かわいいもんですねー」

って頷きあう。

と思っていたら、思いの外 なんども大きな揺れを感じる。

車掌さんからの説明で、大きな地震がおきているとのことを聞く。

とりあえず、ソーシャルゲームをテストするようの自分のガラケーで

ワンセグをチェックする。

「なんだこれ、どのチャンネルでも津波の映像がながれている・・・

これは、ヤバい。そして怖い。正直こわい。

鳥肌がたってきた。

まわりの、観光帰りのおばちゃんたちに伝えようかどうか悩む。。。」

まわりのおばちゃんたちは

「やーねー、ご飯鎌倉で食べてくればよかったわねー」

なんて、やりとりをしている。

いやいや、そんな状況じゃないっぽいすよ。と心のなかで会話に交じる。

とりあえず、e-mobileでつなぎつつラップトップで状況を確認する。

twitterをチェック。

どうも、思ったより大きな地震のようだ。

車掌さんから 、津波警報がでているために横須賀線は見合わせるとのこと。

海のほうを走っていた電車は、止めて避難をしているので 復旧がみえないとのこと。

さらに1時間ほどたち、アポ予定だった先へメールで今日は厳しい旨を通知。

複数社が参加する予定だったMTGだったが、出席者のみなさんから

電車がとまっているのでこれない等でみんな一様に参加できそうない。

一度、ここから鎌倉へ歩いて帰ろうかと思うが、正直入社して間もない自分としては

薄暗くなってきた道を行くのはちょっと不安、、、

と思っていたら、twitterで 江ノ島の海が相当引いいているとの写真を発見。

これは、断念。

とりあえず、電車待機でと判断。

泣きながら携帯で親に電話する小学2年位の子供たち。

でも、電話通じつさらにパニックで泣いている。

周りの大人も声をかけるが、泣き止まない。

すると、●●小学校のみんなーってママらしき人が

子供たちを集めて迎えに来た。やっとこさ、落ち着きながら

でも不安な顔で駅を出ていきました。

そして夕方19時くらいを迎える

USTで生放送されている映像を電車の中で周りの人を集めて

見始めた。

1時間後、電車の中に不安な顔している外国人の観光客に気づき

英語で声をかけて、状況を共有。

すると、この車両だけでなくほかにもいるんでは?ということをイギリス人と

話して、外国人向け説明会を開くために集める。

カップル発見、話しかけるものの なんともうまくいかない。

僕の英語力はあたりまえだが、だめです。

んが、気づくと 彼らはフランス語しか話せないではないか。。。

イギリス人の彼も厳しい。。。ちょっと保留。

で、隣の方にいる別のグループに声をかける。。。。

orz ドイツ人だ。ドイツ語だけか。。と思いきや、英語もいける。

で、しかもフランス語もいける!

ということで、 日本語→英語→ドイツ語→フランス語 という感じで

訳して共有。

みんなに、ラップトップでfacebookで母国の家族にメッセージを送らせる。

大丈夫だと。

なぜなら、ニュースは日本語ではなく 海外のニュースサイトじゃないと

みんなわからないので、見ると 海外のニュースサイトでも同じように

地震のニュース、津波のニュースをやっている。

そして、nuclear power plantなんてキーワードが飛び交っている。

大学以来ですよ。そんな単語聞いたのは。

そりゃ、みんな不安になっている。でも異常な不安感で、聞いてみると

日本は広島、長崎を経験している。だから不安だ。

よくわからないけど、なんか 最悪のイメージを想像しやすいみたいだ。

気づけば、周りはもう暗く、電車の中とホームだけは電気がついている。

よく見れば、信号機も家も全部停電で真っ暗。

遮断機だけは降りて、カンコンカンコンって音はなりっぱなし。

車掌に食いかかってるおじさんもいる。

そりゃー、不安だろう。知らない街で突然よくわかないことになってるんだから。

近くにいたおじちゃん、ちゃらい高校生、おばちゃんグループも

巻き込んで、おじちゃんと高校生が代表してみんなの分をコンビニへ買出しへ。

すると、おじさん なぜか ビールを10本以上買ってくる。

そして、日本語しゃべれないみんなと電車の中で酒盛りが始まる。

すこしは、リラックスしてきたみんな。

と思ったら、車掌さんから電車から降りて

近くの小学校の体育館へ避難しますとのこと。

で、それをやはり

英語→ドイツ語→フランス語

質問

フランス語→ドイツ語→英語

でやりとり。

歩いて15分くらい。

避難所に到着する。

なんか、テレビの世界でしか見たことのなかった

寒い、冷たい床で、非常用の毛布を受け取り

非常食のビスケットと水を受け取り

それぞれ居場所をつくる。

非常用の毛布一枚で寒さは絶対しのげない。

床が冷たく、風は入ってくる。

なんだこれ、なんで俺こんなところにいるんだ。

と思いつつ、ダンボールを集めたり、非常用の毛布を包んでいた

固いビニールをいっぱい集めて床に敷く。

どうも、電車の中にいた人たちだけじゃなく

近所の人もきているようだ。

しかも、情報が本当にない。

でも、ネットには繋がっているのでみんなでひとつのPCを見る。

12時を過ぎる。

老夫婦が近づいてきて、見せてほしいといって

一緒にUSTでNHKを見る。

聞くと、福島の原発のとなりの街から一泊二日で鎌倉へ旅行に来ていたとのこと。

おじさんが一言

「もうダメなだな。。。」

なんも言えなかった。ご家族は九州で、近所の人には一泊だからと伝えずに

こちらに来たとのこと。

明日の朝を待つしかない。電車は動かない。

「ホテルを探すしかないですね。なにかあれば言ってください。」

としか言えなかった。

そして、余震で寝れないし、寒いし、床が冷たく寝れない。

そして浅い眠りなのか、うたた寝なのか、

確実に神経が高ぶった状況で暗闇の中にいました。

翌日の様子はこちらから


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