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明日も「女子力」を削除するーキム・ジヨンのやりきれなさ

上がってきた原稿を読んでいると、いまだに「女子力」という言葉が当たり前に登場する。私は複雑な気持ちになりながら、別の言葉に書き換える。

「女子力」という言葉に対しての非難は、すでにたくさんある。不快に感じている人も少なくないと思う。それでも、私の周囲では、いまだに「女子力」は健在だ。

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お弁当をつくってきた子は「女子力高いね!」と賞賛され、絆創膏を持っていなかった子は「女子力ないな」と笑われる。

女性として魅力的である特徴があることは否定しない。ただ、それらは時代ともに変わるものであり、多様なものである。

「女子力」という言葉で表現されるのは、やはり「料理ができる」とか「絆創膏を持っている」とか、男性を支える女性という前時代的な価値観をベースにした女性像だ。そして、その像は「女子力」という言葉によって、全女子にとっての正解かのように見せられる。

そんな会話が聞こえる私の会社は、比較的新しく、社員は若く、志も高い。きっと、これからの社会をつくっていく人たちだ。

それなのにどうして。と絶望する。女子力という概念自体が消えない社会、これだけ男女平等が叫ばれても他人事でしかない社会に。

誰かがやらなくてはいけないけれど、それは私なのか

だからといって、「女子力全廃」に向け、戦うことを、私はしない。

社会に対するアクションを諦めている自分に気づく時、Netflixオリジナルアニメ「ボージャック・ホースマン」に登場するダイアンを思い出す。

ダイアンはライターで、フェミニストとして描かれる。その苦悩を表現するエピソードが多数あり、シーズン2のエピソード7はその代表だ。

ダイアンは人気タレントが秘書にセクハラをしていたことを批判をするが、世間はタレントの味方だった。

夫は、ダイアンへの脅迫状が大量に届き、自分の仕事も脅かされている状況に耐えかねて、ダイアンの行為に反対した。

ダイアンは「でも、誰かがやらなきゃ…」と言いかけるが、

夫は「それは君がやらなきゃいけないのか」と返す。ダイアンは何も言えず、批判をやめた。


誰かがやらなくてはならないけれど、それは私なのか。

そう思えないからやらない。そこまでの当事者意識もないし、リスクをとる勇気もない。そんなことが、世の中にはたくさんあって、何もしない自分が時々情けない。


「女子力」を削除する

罪滅ぼしという名の自己満足で、私は原稿から「女子力」という言葉を削除する。

「女子力」を扱う記事は、実は反応は悪くない。「女子力」をつけたい読者はたくさんいるのだ。

さらに、小さなメディアのたった数記事。少しくらい「女子力」という言葉があっても、さして影響はない。

数少ない大切な読者に求められているわけでもない、修正に時間がかかるだけの、ほとんど意味のない行為。

それでも、今、私が責任を持っている範囲では、何かしていないと、私が潰れてしまいそうだった。

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最近、ようやく「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んだ。男尊女卑の強い家系で育った私は、涙がこぼれるほど共感したのに、どうしたらいいのかわからなくて、ただ、明日も原稿から「女子力」を削除する。

世界中の全員が、自分が責任をもっている範囲で行動したのなら、何かが変わるはず、なんて綺麗事を言い訳にして。キム・ジヨンを担当した精神科医を、恨み切ることもできないのに。