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「私は何のために生きているのか」:人生の後半の課題

 日頃、死について考えていることを、ゆるゆると書いていきます。
 今回は、河合隼雄『こころと人生』を読み始めたので、それを元に「人生の後半の課題」について考えたいと思います。
※私の考えたことを書いていくので、本の内容には詳しく触れませんが、これから読まれる方にはネタばらしになってしまうかもしれないので、ご注意ください。

 『こころと人生』によると、人生の前半と後半では、異なる課題があるそうです。
 人生の前半の課題は、「どうやって生きていくのか」というものです。例えば、どんな職について、どんな人と結婚するのか、そういったことは、人生の前半の課題とされています。
 一方、人生の後半の課題は、「どうやって死んでいくのか」というものです。一生懸命働いてお金を稼いだり、結婚して子供を育てたり、精一杯生きてきた。けれども、そもそも、自分はいったい何のために生きているのか。人生の本当の目的は何だろうか。そういう深い問いに、人生の後半で取り組むことになるのではないか。本の中ではそう述べられています。

 昔は生きるのに必死で、毎日働いて働いて、そしてそのまま亡くなってしまう人が多かったので、このような人生後半の課題に直面することは、あまりなかったそうです。しかし、物が豊かになってきて、色々なことを考える余裕の生まれた現代では、昔よりも多くの人が、「私は何のために生きているのか」という問題に直面するようになってきたといいます。

 人生後半の課題に直面してカウンセリングを受けに来た人は、地位もお金も家族もあり、端から見るととても幸せそうな人が多かったそうです。しかし、お金も地位も、死んでしまえば全てなくなってしまいます。そこで生じてくるのが、「私は何のために生きているんだ」という悩みです。

 私が意外に思ったのは、お金も地位もあり、結婚して家庭を築いてきたという人でも、毎日「幸せだ」と思って暮らしていけるわけではないということです。
 沢山欲しい物を買ったり、美味しいものを心ゆくまで食べたり、色々なところに旅行に行ったり。そのようなことができても、まだ人には満たされない部分があるようです。では、一体どうやったら人は、幸せになれるのでしょうか。「私はこのために生まれてきたんだ!」とか、「生まれてきて良かった!」と感じるためには、何が必要なのでしょうか。

 本の中では、人生後半の課題には答えがないのだと書かれています。確かに、「どこに就職すれば沢山稼げるか」は答えがある程度分かりますが、「私は何のために生きているのか」に決まった答えはありません。自分自身で、また、時には誰かと一緒に、考えていくしかないように思います。

 私は、死ぬのが怖いです。だから、できれば死にたくないと思っていますが、人間は必ず死んでしまう生き物です。最初から、そういう風にできています。時が経てば、老いていくようにもできています。
 それならば、もしかしたら、老いることも死ぬことも、人間にとって必要なことなのかもしれません。そういう困難があるからこそ、人の心は成長していくのかもしれない、そう考えることもできます。そうは言っても、「それなら死んでも良い」とはとても思えないものですが……。

 『こころと人生』の中には、「想像の病」という言葉が出てきます。簡単に言うと、こころ、もしくは身体の病気をきっかけにして、その人の考え方が大きく変わっていくことを指すようです。
 私は、できれば病気にはなりたくありませんし、衰えたくありません。死にたくもありません。しかし、「想像の病」という視点から見ると、私たちに予め用意されている老いや死は、私たちが心を変化させるために、私たちが「何のために生きているのか」の答えを見つけるために、私たちが幸せになるために、必要なことなのかもしれません。

 精神分析家のユングは、人生の後半では「沈んでいく」ことが持つ意味を問題にするのが大事だと言っているそうです。実際に私が「沈んでいく」ときに直面したとき、「これは私にとって必要なことだ!」と前向きに捉えられるかどうかは分かりません。それでも、人生の全てに意味があると思えると、少し救われた気持ちがするのではないかと思います。
 

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