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信仰と科学について

 日頃、死について考えていることを、ゆるゆると書いていきます。
 今回は、信仰と科学について。

 祖父から、邦光史郎『『古事記』の謎』という本をもらいました。古事記には、日本の成り立ちの神話が書かれているようなのですが、その内容は、神々が土地を産みおとしたり、一度黄泉の国(亡くなった人の国)に行った神が帰ってきたりするというファンタジックなもの。現代の、科学に基づく価値観とは全く異なるものではないかと思います。

 科学の発展により、多くのことが明らかになりました。それは「死」に関することについても、同じではないかと思います。例えば、何が体調不良を引き起こしている原因かということも、昔より明確に分かっていますし、臨死体験でよく語られる死に際の心地良さの原因となる物質も、分かっているそうです。
 このような科学の知識を参考にしながら、私は「死後どうなるのだろう」とか、「何故人は死ぬのだろう」などと考えています。そういうとき、科学によって昔より分かることが増えたような気がするけれど、反対に、実は分からないことが増えているのではないかと思うことがあります。

 おそらく昔の人は、古事記に書かれているような神話などを信じていて、人は何故生まれてくるのか、死んだらどうなるのかなどの疑問に対して、自分なりの答えを持っていたのではないかと思います。それが合っているのかどうかは置いておいて、「これはこうなんだ!」と強く信じていることは、その人にとっては真実になり得るのではないかと思います。

 しかし科学の発達により、今までは信じられていた、神様などの存在が証明できないものを信じるのが、段々難しくなってきたのではないかと思います。だから、私はいつも「死後はどうなるんだろう?」「何故人は生まれて来るのだろう?」と悩んでいるのかもしれません。信じられる答えがあれば、悩んだり考えたりしなくて良いような気がします。
 科学によって、様々な「正しいこと」が明らかになっていくほど、死に対しての神話や信仰は「非科学的」だということで、否定されてしまうのではないかと思います。そして、その結果として、信じられるものがなくなったため、どんどん死が何なのか分からなくなってきたのではないかと思います。

 私は、科学を重視する価値観の中で生きてきたので、今更、科学的な知識は無視して、古事記に書いてあるような死生観を信じるということは難しいです。だから、私はまだ決まった死生観を持っていません。この、決まった死生観を持っていないというのは、ひょっとしたら、私以外にも多くの人に当てはまることかもしれません。

 現代では、科学的な知識によって、今までの世界観や信仰が維持できなくなってきてのではないかと思います。だからこそ、科学的に見ても納得できるような、新しい死生観を求めて、探究を続けていきたいと思います。

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