月が煌めく夜の儚い幻想
天空で月が煌煌と輝くある夜、異能を持つ女達が闇の中に集おうとしていた。それはその辺りを歩いている普通の人々には決して知れることは無かった。
第一章 月下の闇に集う者達
煌御門(きらみかど)碧琴(みこと)はありふれた女子高校生であった。日頃から学級委員やサバイバルゲーム部の部長として活発に活動し、教師や友人達の信頼が厚かった。同時に以前から近隣の鍼灸院の手伝いもしており、院長から跡継ぎの話が出る程であった。
彼女の家である煌御門家は表向きこそ普通の家であるが、実は神代の時代より、決して社会の表には出ずに世の裏から国体を支えてきた歴史を持つ連綿と続く名家である。さらに一族は俗人が持ち得ない強大な霊力を持って生まれてくる。特に碧琴はその筋から「数百年に一度の逸材」と名高かったが、今はまだ十七歳の普通の女子高校生である事に変わりは無かった。
そんな彼女だが、ここ数日徹夜に強いはずなのに真昼間から何事にも集中できず、ぼーっとする事が多くなった。両親は心配して何軒もの病院に受診させたが、何も異常は見つからなかった。
そしてある日の放課後、碧琴は遠くの誰かに呼ばれているような気がして夕方の校門を出ると、自宅でも無くファーストフード店のある駅前でも無く、何の変哲もないバス道に沿って、今まで訪れた事のない場所に向かっていった。日が沈んで辺りが暗くなっても一切意に介さない。気がつくと真っ暗なビルの倉庫に立っていた。そこで高齢の女性が手招きしているように感じたが、碧琴の記憶はそこで途切れた。
煌御門碧琴は失踪した。
その翌日の夜九時のこと。強い風が吹き晒すその山の頂上からは、煌々と輝く月と夜の都会を見渡すことが出来た。高校の制服と思しき紺色のブレザーに身を包み、下にパーカーを着込んだ一人の娘が、闇夜に髪とフードをなびかせていた。
「生駒山上遊園地か、一度昼間に遊びに来たいなぁ。」
その女子高校生は、生駒山の頂上に広がる遊園地のアトラクションと思われる鉄塔の先端に、なんと片足のつま先で立っていた。そしてもう片足をゆらゆらと揺らして、吹き荒れる風に対してうまくバランスを取っていた。強風を受けても意識すらしていない。
「今日のバイト代もらったら絶対遊びに来よう。その時までに彼氏でも作っとくか。」
言った直後に彼女は深い溜息をついた。アテが無いのであろう。
彼女がゆらゆら揺らしていた片足を軽く前に振ると、まるで風見鶏のように体が少し回転して、その目の前に映る景色を変えた。
「あっちが奈良盆地。大阪に比べたら地味だけど、それでも綺麗。さすがに夜は大仏さんは見えないか。」
彼女は遠くを確認するように目を細めた。夜でも遠目が利くのだろう。続いてブレザーの右ポケットに無造作に手を突っ込んで紙のようなものを一枚取り出した。そこには普通の人には読めない複雑な紋様がびっしり書き込まれていた。
「これが現物支給の交通費。出張バイトって聞いたから阪神電車乗って難波で降りて何か美味しいものでも食べよっかって思ってたけど、これって直行直帰ってことよね、残念。日給につられて引き受けただけだから、さっさと終わらせて帰ろ。」
彼女が指に挟んでいるその紙は、視界に入る場所であればどれだけ遠くであろうが瞬間移動を可能にする特殊な符であった。一般の人間には使えないし、そもそも目にすることが無いが、彼女はそれを使って鼻歌交じりにこの鉄塔の先端に飛んで来たのであった。
彼女の言う「バイト」とは、俗に言う悪霊退散である。人間を怯えさせたり憑依しようとする「この世にあらざるもの達」を追い払って対価を得ていた。彼女の語るところでは仏教神道はもちろんのこと、儒教道教、キリスト教にイスラム教、さらにはゾロアスター教の悪霊も調伏(ちようぶく)させた事があるらしい。ただし最後は事実かどうかは定かでは無い。
そのような事を「バイト」と称して軽々とやってのける彼女はもちろん只者では無い。目の前の奈良盆地に都が築かれるよりもさらに昔、現在の大阪府南部の河内平野に数多くの古墳が築かれていた頃から続くある血統の末裔であった。しかし彼女は特にそれを誇ることも無く、見た目はその辺にいる普通の女子高校生であった。
彼女はふと思い返す。
「うちの家はご先祖から続く氷槍の一族。徳島の山奥で大事なものを守ってた春見(かすみ)家、その妹が今の神戸の木津までやって来て、横暴な若武大王(わかたけるのおおきみ)(雄略天皇)から隠れて生きてた仁賢(にんけん)顕宗(けんそう)の二人の皇子様を守った、ってお母さんは言ってた。傍系だけど二一世紀まで地味に続いて来たのに、あの事件で「不必要な力を持つ厄介な姉」とか言われて私は家を追い出された。親戚のおばちゃんにいいところの女子高に入れてもらって、憧れやったファミリアのカバンを持てて嬉しかったしバイトでお金も不自由してない。正直今の方が楽しい。でもほんと、あのおっさん。妹に何かしたら絶対に許さないから。」
それは彼女にとって複雑な思いだったらしい。少し眉間にしわを寄せたように見えたが、すぐに心の奥にしまい込んだ。
彼女は反対側の左のポケットにも手を突っ込んだ。出て来たものは普通の小さいメモ帳であった。それを開くと、冒頭にこのように書かれていた。
『ターゲットの名は煌御門碧琴。高校生。失踪した彼女を救出する為にまず不自然な気の流れを把握せよ。目標は気配を隠す術式を使っている為、根気よく探すように。』
彼女はメモ帳を片手に持ったまま、ふうと息を吐いて視線を移し、ある方角を凝視する。
「奈良は昔から地脈の流れが複雑に書き換えられてて分かりにくいんだけど、あの辺はここ最近の間に人為的にねじ曲げられてる。そして現在進行形で不自然なねちっこい気が集中してる。あれで隠してるつもりなのかな。間違いない。」
やがて風の向きが変わり、先程メモ帳を取り出したポケットの中から別の紙がその風に煽られて飛び出しそうになる。
「おっと、これ晒されるの無理!」
その紙には赤ペンで大きく「二八点追試!」と書かれていた。横には「三上(みつかみ)佐枝子(さえこ)」という名前が書き込まれていた。答案用紙らしい紙をもう一度ポケットに押し込んだ。
「目標確認、行動を開始する。そんじゃ、ちゃっちゃと終わらせよっか!」
彼女、佐枝子は右の指に挟んでいた符を左から右に勢いよく振った。書き込まれていた紋様がほのかに赤く輝くと同時に佐枝子の姿はその鉄塔の上から掻き消えていた。
もう一人の若い女は、仕事が終わると相部屋の引きこもり少女とゲームをして遊ぶという平凡な暮らしをしていた。その夜も二人は新作ゲームに興じていた。
「ねえ、今何かぞくってしなかった?」
不意に女性が問う。少女は振り向かずにゲームパッドを握りながら応じる。
「別にぃ。変な電波でも食らったんじゃない、愛綺羅(あきら)?」
愛綺羅と呼ばれた女も少女と一緒にゲームパッドを握っていたが、心中はゲームでは無くその妙な気配の原因を探っていた。
『…この感じは、封印しておいたはずの碧琴の力ね。それに干渉するのは高辻系の術式みたいね。私の予想が当たってたら最悪、雷神様の再臨、か…。』
大きな液晶モニタから甲高い効果音が流れる。
「なにをぼーっとしてるの? 今まともに雑魚の攻撃食らっちゃったじゃない。そんなヘボいんじゃ回復してあげないよ。」
「仕方ないわ、ぼーっとしてたのは本当だから。」
「愛綺羅は時々そんな電波娘っぽい事を言うね。」
「まあだいたい合ってるかも。ところでその電波娘がちょっと里帰りするけど構わないかしら?」
「別にいいわよ。私は愛綺羅がどこから来たのかも聞かないし、どこへ行っても聞かないわ。ゲームは置いていってね。」
「ありがとう。おみやげは何がいい?」
「聞かないって言ったのに答えられないよ。何かおまんじゅうっぽいの、お願い。」
「おまんじゅうね、分かったわ。」
「行ってらっしゃい。」
少女はあっさりと愛綺羅を見送った。
「悪いわね、気を遣わせて。可愛い妹の事だから急がないといけないの。」
碧琴(みこと)の姉、煌御門(きらみかど)愛綺羅はそう心中でつぶやくと、濃いグレーの外套を深く被った。しかし外套は彼女の体を覆わずにふわっと地面に落ちた。そこに愛綺羅の姿は無かった。空間跳躍など彼女には息をするのと変わらない。
第二章 蟻地獄に飛び込む
その老婆は腰が悪いのであろう。小さくしぼんだ体を高齢者向けカートに預けながらゆっくりと歩んでいた。既に日は暮れ、辺りはか細い電灯と月明かりのみとなっていた。すれ違う人々は老婆が家に帰ろうとしていると思ったが、すれ違ってしまえば記憶の片隅にも残らないほど、平凡でぱっとしない容姿であった。何もかもが日常の風景であるが、非日常が夜の帳に身を隠しつつ現れようとしていた。
「よっと。」
佐枝子は植え込みの影の虚空から姿を現し、両足で着地した。そして辺りをきょろきょろ見回す。道路を挟んで向こう側にバーが一件あった。入口に大きな人型戦闘機の模型が置いてあるのが目立つ。彼女が再度符を使って空間跳躍するかどうか迷っていると、そこにその老婆が通りかかった。
「あんた、道に迷ったのかい?」
「うん、ちょっと郵便ポストに行こうと思って。」
佐枝子はとっさに適当な返事をした。老婆はそれに答える。
「ポストならあそこを曲がって少し歩いたところにある。それとあんたの上着のポケットから何かはみ出ている。それは紙切れじゃ無くて由々しい符だから早くしまいなさい。」
佐枝子ははっと息を呑んでポケットを押さえるが、老婆は表情を変えずに続ける。
「あんたも術者なんだね。私もそう。」
「え、おばあちゃんも?」
佐枝子は老婆の言葉につられて、状況をごまかすのを忘れていた。
「あんたからは私と似た力を感じるよ。強い生命力を秘術で不思議な力に自在に変えられる。」
「術も力もご先祖様から受け継いでるらしいの。それが良かったのか悪かったのか、私には分からないけど。」
「そうかい。持たざる者には分からない悩みだね。それにあんたは私の孫に似ている。あの子もかわいい盛り…だった。」
「だった?」
「あんた高校生だね。あの子も、今あんたが着ているような制服を嬉しそうに私に見せに来た。なのに…。」
「お孫さんになにかあったの?」
「お喋りが過ぎたね。ほらもうこんな時間だ、早くお家へお帰り。夜中に一人歩きしていると人攫いにあうよ。」
老婆は少し憂いを帯びた表情を浮かべた。そして二人は別れた。数歩歩いた先で老婆は一人呟く。
「そう、人攫いに会う前にね。」
佐枝子も数歩先で一人呟く。
「おばあちゃん、ごめん。もうお母さんが待ってる家は無いの。」
彼女らはそれぞれ虚空に姿を消した。
佐枝子はバス道をやや進み、元は大きなショッピングセンターだったように見える古びた商業施設にやって来た。もう日付が変わろうとしているこの深夜に営業しているはずなどなく、照明の消えた館内は闇に没していた。佐枝子は建物の横に回り込み、さらに錆びたフェンスを超えて裏に回った。そのやや下に流れる小川のほとりまで降りていった。
「これだけ強くねちっこい気を放っているくせに、対一般人向けの外観はしっかり隠蔽してるのね。ちぐはぐというか何というか。」
佐枝子の目の前には、建物の基礎というべきコンクリートがむき出しになっていた。彼女はそこに手を触れると、今度は符を使わずに小声でつぶやいた。
「我が前にては如何なるまやかしも意味を為さず。『贋梅除壁(がんばいじょへき)』。」
一見何も変化が無いように見えた。しかし佐枝子が靴で無造作にコンクリートを踏むと、彼女の姿はその場から忽然と消えた。ただし一部始終を見ている者はいなかった。
佐枝子はだだっ広い闇の空間に立っていた。先程の小川の高さからして、多分その建物の地階倉庫に違いない、と判断した。そして右手を上に上げて手のひらを開き、再度小声で術を詠唱する。
「宙に潜みし氷の粒よ、集え、そして照らせ。」
佐枝子の手のひらに小さな氷の塊が現れて、優しい輝きを生み始めた。その輝きに応じて周囲の闇が払われ、倉庫の内部が照らし出された。そして彼女は前方に座っている一人の小さな人影を認めた。
「あんたがこのねちっこい気の源ね。目的を言いなさい。」
その人影から声が発せられた。
「目的かい、孫を生き返らせるんだよ。」
初めて聞く声では無い。先程佐枝子と会話していた老婆の声であった。ただし、ほんの数十分前は孫の自慢話をするありきたりの老婆だったのに対し、目前にいる人影は姿は同じでも纏う雰囲気が全く違う。なにか悪霊に取り憑かれたかのような邪気を放っていた。老婆は続ける。
「理不尽な理由で他界したとは言え、生死の理を覆すには少なからず力が必要になる。だから私はこの場所で準備をしてたのさ。」
佐枝子は何も言えずに老婆の言葉を聞いている。
「そしてようやく見つけた。この娘は常人をはるかに凌ぐ力を持っている。その全てを我が術の為に吸い出せば、目的は叶う。孫は再び生を受ける。」
「むす…め…?」
ようやく口を動かした佐枝子は、老婆の後ろで手足を拘束されて気を失っている一人の娘の存在に気がついた。
「その子、私と同い年くらい。まさかその子が…。」
老婆は口調を変えずに淡々と答える。
「そう、煌御門碧琴。代々語り継がれる事の無い、裏の世界を仕切る煌御門家の娘。この子はその莫大な力を受け継いでいる。この子一人で遡逆転生(さくぎゃくてんせい)の術に必要な力が充分に賄える。」
佐枝子は狼狽した。目の前の老婆は、何の理由か知らないが一度死んだ孫を、今を生きている娘の生命力を搾り取ることで甦らせようとしている。うろたえるあまり、佐枝子は聞いても無駄なことを質問した。
「どうしてお孫さんは亡くなったの?」
生気の乏しかった老婆がそれを聞いて初めて明確に表情を浮かべた。醜く口角を吊り上げて怒りとも恨みとも言える、歪んだ表情に変わった。
「いじめにあったのさ。好みのアイドルの違いで口論になったと聞いている。そんなつまらない理由で孫は昨日までの親友に小汚く罵られ、見えないところを殴られていくつも痣をつけられ、インターネットに実名と写真と携帯の番号を晒されてストーカーにつきまとわれた。あの子が何とか勇気を振り絞って教師に相談したら学級委員会か何かで公にされて、いじめはエスカレートした。学校に行けなくなって家にこもっても、毎晩毎晩そいつらの罵声が幻聴になって聞こえたらしい。やがて精神を蝕まれて廃人になり、ふと外に出たところでトラックに轢かれたのさ。運転手は逮捕されても実際に孫の心を弄んだ連中は証拠不十分でおとがめ無し。そんな理不尽な理由で孫は死んだのさ。私は天を仰いで三日三晩泣き続けた。慟哭を止めることが出来なかった。」
そして鋭い目を佐枝子に向けて告げる。
「あんたなんかにあの子の無念は分からないし、分かって欲しくない。だから、」
老婆は佐枝子に向かって両手をかざした。
「邪魔するなら消えてもらう。『威雷活殺(いらいかつさつ)』!」
老婆の手から落雷の如く凄まじい電流が佐枝子に向かって放たれ、肝を寒からしめる程の轟音が空間に響き渡った。佐枝子は反射的に両手を体の前にかざして避けようとしたが、その程度で何とかなるものではなかった。
「ドンッ」
腹の底に響き渡る轟音の後、倉庫全体をもうもうとした煙が覆った。大惨事が起きたにもかかわらず、そこには場違いな静寂が訪れた。
「邪魔立てしなきゃ死ななかったのに。」
老婆はぽそりと呟いた。それに答えられる者は既に霧散した筈であった。
第三章 慟哭を裂く雷、鞭、氷
雷の生んだ煙の中から、それに答える声があった。佐枝子の声では無かった。
「そうね。頑固ババア相手に余計な人生相談コーナーなんかしてないで、さっさと手を下せばよかったのよ。それでも冷血で有名な剣山の氷槍使いの一族のつもり?」
ローズレッドのタイトスーツに身を包んだ大人の女が、雑な持ち方で鞭を持ち佐枝子の横に立っていた。鞭の先は倉庫の壁の水道管に巻き付いていた。雷撃はその鞭に逸れて佐枝子に当たらず、金属製の水道管が避雷針代わりになって消滅したらしい。
「ほう、案外早く着いたみたいだね。煌御門(きらみかど)愛綺羅(あきら)。」
老婆は突然現れた女性をそう呼んだ。
「あら、私はあんたなんか知らないわ。」
愛綺羅は無愛想に答える。
「あんたは裏の術師の界隈では有名じゃないか。私が張った意識改変の結界を、術も発動させずまるで買い物気分でここに現れ、猫をじゃらすように我が雷撃を往なした。そんな素敵な鞭使いはスレイハイドの愛綺羅、一人しか心当たりが無い。」
「雷撃、ねぇ。私の前では『威雷活殺』なんか静電気のはずだけど、とっさに鞭を避雷針にする位は威力があった。それは可愛い妹の力を使った技。クソ忌々しいからここで死になさい。」
頭越しに交わされる会話から、佐枝子は突然現れた女性の名が「煌御門愛綺羅」ということと、彼女が老婆の後ろで拘束されている娘の姉だということを知った。そして愛綺羅が妹のために老婆を殺そうとしていることも。彼女は佐枝子の素性を知っているようだが、それを問いただしている余裕は無かった。
「ちょっと待って、二人とも家族のために相手を殺そうとしているの? そんなの間違ってる!」
「感電娘は黙ってて。すぐに終わるからその後でたっぷりお説教してあげるわ。」
愛綺羅は軽く鞭を振って手元に巻き取ると、今度は老婆に向かって振り上げた。
「汚い断末魔は聞きたくないからさくっと終わらせる。『談蛾交鞭(だんがこうべん)』!」
一本だったはずの鞭が何本にも分かれて老婆を巻き取り、絞め殺したように見えた。しかし老婆は稲妻で体の周囲を覆い、全ての鞭を弾き飛ばした。愛綺羅は再び鞭を手元に巻き取った。それはたったの一本であった。残りは全て残像だったのか。
「面倒くさいから無駄な抵抗は止めなさい。『談蛾百交鞭(だんがひやつこうべん)』」
愛綺羅は再び鞭を振り上げた。今度は術の名の通り何百本もの鞭が現れた。しかしそれらは老婆の元まで向かわずに、途中で何か棒状の物に巻き付いて動きを止めていた。
「ねえ、少しくらいは話を聞いてあげてもいいんじゃない?」
言ったのは佐枝子だった。彼女は右手を高々と振り上げその右の手のひらを開いていた。佐枝子が手を降ろすと鞭はほどけ、その場に空色に輝く槍が一振り浮かんでいた。穂先は木目の入った鞘が嵌っていた。
愛綺羅は感心したように言う。
「それがかの高名な「氷槍(ひょうそう)『霜華(しもばな)』」…のレプリカよね。」
「私の可愛い『霧叢(きりむら)』をレプリカ呼ばわりすんな。合ってるけど。」
愛綺羅は佐枝子の苦情に耳を貸さず、老婆に向き直った。
「さて婆さん、あんた雷神になるつもりね。」
第五章 邪気を纏う鉄槌
佐枝子が驚いて何か言う前に、愛綺羅は構わず言葉を続ける。
「あんたの雷は太宰之社家、高辻家の系統。その祖は高辻大学頭(だいがくのかみ)是綱、その父は菅原定義。さあ感電お嬢ちゃん、ここまで説明すれば分かるわよね。」
「大学頭…って朝廷の学問博士、そして菅原…、もしかして道真公の子孫ってこと?」
「そう。今は学問の神様だけど、崇徳院・将門公と並んでかの平安朝を震撼させたこの国の三大悪霊の一人ね。清涼殿落雷事件も知ってる?」
「雷神と化した道真公が、帝の在す清涼殿の幾重もの重厚な結界を破って大臣達に雷撃を浴びせて惨殺し、その穢れを目の当たりにした帝が乱心して崩御した事件…。」
「正解。そしてこの婆さんにはなぜか知らないけどそれに匹敵する雷神になれる素質を受け継いでいる。ただ力はへっぽこ。だから碧琴から力を吸い取ろうとしている。孫を生き返らせた後でいじめっ子達に同じように雷撃を浴びせて殺すんでしょうよ。ついでにその辺の関係ない連中が巻き添えを食らって醜く死んでも、蚊が刺したほどにも感じないでしょうよ。」
佐枝子は驚愕する。
「生死の理を破って、人を殺して、その上に罪のない人々を巻き込んでも構わないっていうの? そんなの間違ってる!」
今度は老婆が佐枝子に向かって口を開く。
「小娘の癖に分かったような口を利くんじゃないよ。マンガに書いているような綺麗事など実際にはいくら探してもありはしないのさ。」
佐枝子は老婆に哀しげな目を向けた。そして言葉を噛みしめながら言う。
「私のお母さんはね、親戚の叔父さんに酷いことをされて殺されたの。何度も何度も叔父さんに蹴られて殴られた。気を失っても冷水を浴びせられては同じ事を何日も繰り返された。それでもお母さんは泣かなかった。一滴の涙すら私たち姉妹に見せなかった。」
一呼吸置いて、今度は老婆に射貫くような視線を向けた。
「人ってね、悲しすぎると涙すら出ない。感情そのものが消えて、心に開いた風穴から何もかもがすり抜けて残らないの。でもおばあちゃんは三日三晩『泣けた』のよね。それは人間としての感情があふれるほどあったからよ。」
老婆は鼻を鳴らして佐枝子の言葉を受け流す。
「知ったような口を利く娘は可愛くないね。佐枝子、と言ったかい。確かに愛綺羅の言う通り、さっきはあんたを殺すのを躊躇していた。だから今から一瞬で殺す。せめて苦しまないようにね。」
愛綺羅はそれを聞いて鼻先でふん、とせせら笑う。
「婆さんは人工甘味料まみれの外国のお菓子くらい甘ったるくて呆れるわね。感電娘は多少の辛さはあったみたいだけどまだまだ可愛いわ。自分は…もう人じゃない。」
そして二人から視線を外して淡々と続ける。
「誰かが見合う報酬をくれるなら、それこそ買い物気分でスレイハイドを使って核ミサイルのスイッチを入れてくるわ。別に難しい事じゃ無い。」
一呼吸置いてさらに語る。
「それをあんた達は悪魔の仕業とか言うんだろうけど、悪魔には恨み辛みの感情がある。逆に天使それが無い。神の命令なら核攻撃でも隕石落下でも、黙字録のラッパを軽やかに吹きながらやってのけるでしょうよ。私がそれをしないのは単純。文明が無くなったら札束はトイレットペーパーにしかならない。それだけね。」
佐枝子はそれを聞いて数歩進み、そっぽを向いた愛綺羅と老婆の間に割って入る。
「じゃあ仕事人さんは黙ってて。妹さんを助けに来たのならこの件でお金は出ないのでしょ? なら私はバイトだから碧琴ちゃんを助ける。その時におばあちゃんがどうなっても構わないわよね?」
「好きにしたら? 現場監督はさせてもらうけど。」
佐枝子は槍を下段に構え、気を発して周囲に強烈な冷気をまとう。そしてゆっくり息を吸うと数秒呼吸を止めた。するとその冷気が槍に乗り移り、音を立てて鞘が勢いよく外れた。佐枝子はため込んだ息を堰を切ったように吐き出した。
「数多の氷粒に命ず、八角と化し目の前の邪を祓え、『滅災八槍(めっさいはっそう)』!」
唱え終わると同時に佐枝子の氷槍「霧叢」が青い輝きに包まれる。そして槍を下段の構えから頭上に構え直す。
「はっ!」
佐枝子が気を発すると、切っ先から八本の氷柱が生まれ、常人は決して捉えることが出来ない速さで老婆に向かって飛んだ。そのまま氷柱が貫いて即死するかのようにみえた。
しかし老婆はほんの少しだけ唇を開いた。何か言ったのかも知れないが佐枝子には聞き取れなかった。その直後、飛来した氷柱に応じるように八つの雷球が老婆の周囲に現れた。氷柱はそれらに命中すると勢いを殺され、まるで木の枝になったかのように空中に停止した。雷球は消滅せず、八本の氷柱を伝わり凄まじい雷に変化して、逆に佐枝子に襲いかかった。雷撃の防御法に疎い彼女は、先程と同じく体の前で雷に向かって槍を平行に持ち、気の障壁を張った。
「はあああぁぁ!」
しかし無情にも薄水色の防御壁は八本の雷撃の直撃を喰らい、薄いガラス細工のようにあっさり破壊された。しかし防御壁を貫通した事で雷撃は佐枝子をわずかに逸れた。直撃は免れたものの、雷撃の生んだ衝撃波までは防御しきれずに佐枝子の両足は地面から勢いよく剥がされ、その体は猛烈な速さで後方に飛ばされた。愛綺羅の真横をすり抜けて倉庫の壁に激突するのは明白であった。
佐枝子を助けても一銭の得にもならない愛綺羅は軽くかわして黙ってやり過ごそうとした。しかし佐枝子の顔が愛綺羅の耳とすれ違うほんの一瞬、佐枝子は愛綺羅の耳元に向かって、老婆には聞こえない程かすかに囁いた。
「三秒。 その間に…」
言い終わるやいなや佐枝子は衝撃波に弾き飛ばされてさらに後方に飛んでいった。愛綺羅は軽く溜息をつく。
「初めからそのつもりだったのね。並の術者が八つの球を生む高級雷術『珠輝八連(しゅきはちれん)』を行使すると、制御が間に合わず三秒程度の隙が生まれる。それを知ってての無謀な行動とは全く生意気。でもいいわ、今回はあんたの拙い策に乗ってあげる。ひねくれババアはもう一度『談蛾百交鞭』を喰らいなさい。」
愛綺羅は鞭を縦横無尽に振り、老婆の周囲に残っていた八本の氷柱に鞭の先を巻き付けた。そして気を込めた。氷柱は全て派手に爆発し、鋭利な氷の粒が四散した。それらが体に刺さらないように防御に回った老婆は、その隙に鞭に巻かれた。そして空中に放り出された。愛綺羅はそのまま老婆を床に叩きつけて殺そうとした。
「ちょっと、誰も殺していいなんて言ってない!」
後方に叩きつけられてうずくまっていた佐枝子は、残る力で氷槍『霧叢』を愛綺羅に向かって投げつけた。愛綺羅はほんの少し体をひねって簡単に躱したが、一瞬気が逸れた。
「ちっ。」
それで愛綺羅は完全に興をそがれ、溜息を一つつくと鞭を解いて老婆を解放した。
そもそも初めから、老婆は碧琴の強大な力の片鱗とも言えない程度の僅かな量しか力を制御出来ていなかった。それを初見で見抜いていた愛綺羅は老婆退治が取るに足らないことと即断し、まるで買い物ついでに野良猫と戯れるがごとく老婆をあしらっていたのだ。
「さて、もう面白そうな事は残って無さそうだから、碧琴を返してね。」
佐枝子は咳き込みながら右手で壁に寄り掛かり、ようやく立ち上がった。そして地面に這いつくばって息も絶え絶えの老婆に話しかける。
「最後におばあちゃんに言いたいことがある。」
「ふん、こんな小娘に情けをかけられるとはね。」
佐枝子はゆっくりと老婆に近づきながら、言葉を切るように言う。
「勘違いしないで。別に情けをかけたわけじゃない。」
そして歩を止めた。
「おばあちゃんはこれから、お孫さんが死んだこと、そして自分がここで生き延びたことを考えて。ここであっさり殺したらおばあちゃんはあの世でお孫さんに会えるかも知れないじゃない。それでは幸せを与えてしまう。」
佐枝子は老婆を見下ろしつつ続ける。
「人の生死には必ず何かの意味があるの。私も必死で、お母さんの人生に何の意味があったのかを考えてる。おばあちゃんもお孫さんの運命の意味を考えて。納得しないうちは、私たちはあなたを殺さない。これからずっと生き続け、苦しみ続けてもらう」
愛綺羅は一言だけ言う。
「ま、そういうこと。未成年にしてはちょっと位は人生を見て来ているようね。」
そして老婆の横をすり抜け、気絶している碧琴の手足の拘束具をいとも簡単に破壊して腕に抱いた。二人がまばたきすると、既にその場から愛綺羅も碧琴も姿を消していた。
「私も帰る。バイト代をもらいに行く。」
佐枝子は出口をさがしてきょろきょろした。老婆はそれを見て言う。
「あんたもその高級な転移の符でさっさと消えたらいいじゃないか。」
「地下じゃ目標が見えないから使えないのよ。」
終章 日常の再起動
愛綺羅は碧琴を介抱し、自宅の玄関まで見送った。時刻は既に早朝、深夜に煌煌と輝いていた月は西に沈み、反対に東から太陽が顔をのぞかせつつあった。
「お姉ちゃんは家に入らないの?」
「私は勘当を受けたようなものだからね。お許しも無しに戻れはしないよ。」
「そうだったね。私はお姉ちゃんにまた会えて嬉しいのに。私もお姉ちゃんみたいな魔法使いになりたい。」
「そんな事言うのは十年早いさ。ちゃんと学校で勉強してからね。」
「えー。」
魔法使い、という言葉以外は、至って普通の姉妹の会話であった。
「じゃあね。今度いつ会うか分からないけど。」
「お姉ちゃんも元気でね。」
愛綺羅は碧琴に背を向けると、次の瞬間姿を消していた。
「私は本当に、魔法で人を助けたいの…。」
碧琴はつぶやいた。
愛綺羅は元の少女の家に帰ってきた。
「ただいま。約束通り賞味期限の長いおまんじゅうを買ってきたわ。」
「待って、完徹でゲームしてたから今から寝る。おやすみ。起きたらお茶にしようね。」
少女はすぐに眠りについた。
「穏やかな日々が永遠に続かんことを…。」
その眠り顔を見つつ、愛綺羅は別れ際の碧琴の愛らしい顔を思い浮かべていた。
佐枝子は再び生駒山上遊園地の遊具の上に戻って来ていた。ここから一気に戻れるはずだが、奈良盆地を振り返って悲しそうにつぶやく。
「お母さん、私、泉水を助ける。でもどうしたらいいの?」
月が煌めく夜の儚い幻想 完
表紙 絹井けい
挿絵 ちゃとん
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