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何が差別なのか。私は、何に怒っているのか。


 何が差別か差別じゃないかって難しすぎやしないか?特に、一見その属性の人たちを高く評価してるような場合において、そういった偏見を差別と言っていいのかすごく迷ってしまう。

 就活を始めて数ヶ月、女性が圧倒的に少ない企業の説明会に行くと「女性ならではの視点が欲しいので、女性社員を求めている」なんて言葉が人事から飛び出すことがある。ある人事曰く、女性は男性に比べて気が利くので、仕事の場に置いても細かいことに気がつくのだそうだ。

 このような評価は、紛うことなく偏見である。「細かいところに気がつく」という当人の性格や能力を、女性特有のものだと評価して疑わないのだから。しかし、この人事は女性を低く評価しているわけでもないし、採用において女性を排除する意思はないように思われる。この人事の考えが偏見に満ちていたとしても、これを直ちに差別と言って良いのだろうか?

 同じような事はいくらでもある。「ゲイはみんな人生経験豊富で面白いから好きだ」「黒人はみんな運動神経がいいから好きだ」「日本人はみんな真面目だから好きだ」これを言う当人たちは、誰かを差別する意図を持たずにこういった発言をしている。女性だとか、ゲイだとか、黒人だとか、日本人だとか、特定の属性を持った人を持ち上げて褒め称えるための発言であったりもする。でも、それでも私にはこの発言は気持ち悪い。こんなことを言ったその口で、「自分は差別に反対だ」とか「差別なんてもうこの世にないよな」とか言う人も心底嫌いだ。

 偏見を持って、色眼鏡で他者を見ている人が、本当に目の前の人を正当に評価することができるだろうか?「女性は気が利く」と言ったあの人事は、お茶汲みをしない女性を気が利かないダメな女性社員、お茶汲みをしない男性を普通の男性社員と評価して憚らないのではないのか?採用の場においては、その偏見でもって女子学生を不当に低く評価することはなくても、採用後は女性と男性をあからさまに区別して、偏見に基づいて男女別々の評価基準で評価するんじゃないだろうか?それは、まさしく「差別」と言っていいだろう。

 偏見は差別の種だと、私は考えている。偏見を表現する手段の一つに「差別」という方法がある。そんな偏見を持っていながら、そのことに無自覚な人に、私は怒っていたのだ。偏見でもってその属性の人を評価しているにも拘らず、自分はその属性の人たちの味方だと信じて疑わない無神経さに反吐が出る。

 差別をなくすためには、偏見を無くさないといけない。偏見をなくすためには、偏見を偏見だと認識しなければならない。偏見を合理的な評価だと思っている人に対して、私は何ができるだろうか。こんな怒りを抱えたまま、偏見を持った人とまともに話し合うことなどできる気がしないのである。

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