私は花じゃないから、自分の足で「かわいい」を手にいれる。

よく、「置かれた場所で咲きなさい」なんていう名言じみたものを振りかざす人がいる。その環境に殺されている人には、ただの刃でしかない。置かれた場所で? 素敵な説教に酔いたいなら一人でどうぞ。

人間は花じゃない。足がある。だったら、自分を活かせる場所に行くために動くべきだ。そのための、足なんだから。

あっ、言いたいことを先に言ってしまった。しかも「かわいい」が一言も出てきていない。ここからどう「かわいい」の話になるの? と思った方、ご安心を。ちゃんと、「かわいい」の話をする。

子どもの頃は、子どもであるだけで無条件に「かわいい」を手に入れられた。笑えば、大人が笑い返してくれる。子どもは、「かわいい」から。

「しょうらいのゆめは、おひめさま!」なんて無邪気に言っていた時代が私にもある。

でも、成長していくと、だんだん、「かわいい子」と「そうでない子」に分けられてくる。あれは誰が分けるのだろう。「かわいい子」はモテる。泣けば許される。「そうでない子」はその逆。

モテたいわけじゃなかったけど、「かわいい子」の方が人生楽そうだから、いいなと思っていた。

中学高校と、「かわいい」を手に入れられなかった私は、大学でもそうなんだろうなと投げやりだった。でも、そんなことはなかった。

大学には、私に「かわいい」、「美人」と言ってくれる人が存在した。私は大学という場を、一瞬で好きになれた。特に大学に入るときに劇的な変化をしたとか、そういうことはないので、本当に環境が変わったんだろう。

中学高校においての「かわいい」とは何だったのか。今ならわかる。容姿が優れているだけでなく、都合のいい性格をした女の子を指していたのだ。都合のいい、というのは、例えば、皆に優しいとか。

皆に優しいことは一見すると美徳だが、搾取する側にとってみれば、都合がいいだけである。思えば、高校のときの「かわいい」あの子はクラスの皆に手作りのお菓子を配っていたっけ。

大学に入り、「かわいい」の意味やあり方がやっと変わったんだろう。搾取しやすい、都合のいい女の子に主に男子から向けられる視線だったのが、女の子が自分達をエンパワメントする言葉に変わった。

もらうなら、絶対そっちがいい。大学での「かわいい」がいいに決まっている。

環境が変われば、「かわいい」も変わる。私たちは根の生えた花じゃない。「かわいい」と言ってくれないどころか、「かわいくない」とメッセージをぶつけてくる場所なんか捨てて、素敵な「かわいい」をくれる人のところに行こう。

そうしたら、いつの間にか、自分で自分を「かわいい」と思えるようになるから。

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