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夏の終わりの夜のこと。

少し前にこんなnoteを書いた。

家が安心できる場所ではなく、学校は学歴をつけるために行っていた、だから休まず行ったのだという文章だ。

でも今思い返せば、行かなくなってても行けなくなっててもおかしくない話だ。成績上位者で人を見下していた私の周りには中学まで友人などいなかったわけだし。アルビノを理由に排斥されもした。そのうち「こいつに手を出すとすぐ先生出してくるからやべえな」と思われたのか放っておかれるようになって快適だった。何もされない空間、気楽でいい。

そんなわけでほぼ皆勤賞を果たした私は、多分人より鈍くてそれ故に強い。そもそも人のことを私に危害を加えてこなければ何でもいいと思っている節があるくらいだ。遠巻きにされているのを快適と言ってしまうくらいには他人を求めていない。

それでも私は知っている。友達がいても何となく行けなくなることがあることも、いじめではないけれど友達がいないという理由で行くのがつらくなることも。それほど学校という場所には「合わせなければならない」とか「友達がいなければならない」とか、そんな暗黙の了解がある。それは真綿で首を絞めてくるかのように人を蝕む。

それで、じゃあどうすればいいのかっていう話だ。皆私みたいに鈍くなれたらそれはそれで楽になれるかもしれないけど、それは何だかギスギスしそうだ。

そこで、学校に行くことではなく、勉強して学歴をつけることに重きをおいてみるのはどうだろうか。何も変わってないじゃん、と思うかもしれない。全然違うのだ。

多くの人は全日制に通っていることだろう。それを全日制じゃなくてもいいかも、と考えてみよう。高卒という学歴は定時制で取っても通信制で取っても高卒なのだ。これがあれば大学受験ができる。

小中学生はどうすればいいんだ、という声が聞こえてきそうなので、学校に行くのがつらいなら行かなくてもいいからとにかく勉強をするべきだ、と言っておく。

何故なら学力は身を助けてくれるからだ。勉強して多くのことを知ることは自分自身を救ってくれもするからだ。

今こうして私が文章を書けているのも読書量があってそれなりに書く訓練もしてきたからだ。それは突き詰めれば学力だ。

それにアルバイトが決まらないnoteでも書いたが、「社会不適合者と言いますが、適合しようとする社会は正しいですか」という問いに私は救われている。大学に行って幅広い教養の講義を受けなければ知らなかった発想だ。

学歴は、それを得るために身につけた学力は、身を助けてくれるし心を救ってもくれる。

だから、やるべきことは勉強だ。

少し耳に痛いかもしれないが、やはり書いておこうと思ったので、書いておく。

日本はやはりまだ学歴社会だ。高学歴であればあるほど高収入が見こめる。つまり、生きていくためには高学歴を手に入れることを目指すのが得策である。

というわけで、勉強しよう。特に英語をやろう。雁屋も英語頑張るので。

執筆のための資料代にさせていただきます。