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中身の白さは保証されない。

私はアルビノで色素が薄くて、肌も白くて髪や目の色も薄い。こう書くと生まれたときからきれいな色しているのっていいなあとか思われそうだしきれいな色だと自分でも思うけど、日焼けに弱いので常時日焼け対策が欠かせないという弱点もある。一長一短である。人によってはデメリットの方が大きいと感じるかもしれない。

ただこの、「白くてきれい」な外見が当事者の「白くてきれい」な性格を保証するものではまったくないのだ、ということを伝えたくて、今回書き始めた。外見が「白くてきれい」でもこの現実を、社会を生きているのだから、中身が「白くてきれい」なままという わけにはいかない。

それどころか髪の色を理由にアルバイトを断られたり、視力で就職面接落とされたり、といった経験をしている可能性だってある。そんななかで、「白くてきれい」な心であれというのは酷なことだ。壁にぶつかれば、人は「白くてきれい」でなどいられない。葛藤したり、誰かを恨んだり、そういうこともあるだろう。そういうこともあっていい。だって私達は人間なのだから。

Twitterで"「白くてきれい」と言われると中身も「白くてきれい」であることを求められている気がする"と言った人がいた。私はここには大きな問題が潜んでいると考えている。

ことは「アルビノが白くてきれいだから中身もそうだと思っちゃうよね」なんて言説ではすまされないのだ。

中身まで「白くてきれい」であることを求められているかもしれないという感覚は、私にもある。お互いのことをよく知るにつれ、私の中身が「白くてきれい」なんかではないことをよくわかってくれるようになるのだが、それでも初対面では「白くてきれい」な外見を褒められ、「白くてきれい」な中身を求められていると感じることがある。

これは、障害者やセクシャルマイノリティなどの弱者に対する、「清く正しくあれ」のような圧にも通じるものがあると私は考える。例えば、障害やうつを公言している人が、セックスの話をするとフォロワーが減ったり、そんな話をするなんてけしからんと怒られたりする。これはおかしな話だ。

マイノリティの人々は、決して「清く正しく」なんかない。受けた理不尽をよくないと訴えるときに、「清く正しく」、「白くてきれい」でないといけないというのはおかしい。不当である。

マイノリティの人々だって失敗するし間違える。それを責められるのもある程度は仕方のないことだが、マイノリティであるからこそ風当たりが強いということになっていないだろうか。

アルビノが中身も「白くてきれい」なんて幻想は是非捨ててください。アルビノの人は、現実を生きている。あなたの日常と地続きの現実を。

執筆のための資料代にさせていただきます。