他者の理解って、どゆこと??➂”

※このシリーズは、他者の理解について、メンヘラ気味のオバさんが、世の中でうまく生きられるようにと、考えを深めていく記事です
※➂が長かったため、’と”の、2つに分けましたm(_ _)m
  この記事は、[他者の理解って、どゆこと??➂’]の続きです

意識のストライクゾーン、狭っ!って思いますが、いろいろな事情があるかもしれません
例えてみると
ストライクゾーンが狭ければ、キャッチャーミットを外してしまうのは、当たり前なことだと思うんです

私もどうしても、子どもを怒ります
(アドラーが好きと言いながら、実践出来ていないヨネ^^;)
しかし、とても間違っていることです

子どもは自由にキャッチボールをしたい、それが基本的に人間の姿だとして、
そのために
受け損ねたり、あらぬ方向に飛んでいったりする
子どもは運動神経の、まだ未成熟な部分があると思うので、
加減が出来ないことは、身体の特性上自然なことだと思うんです
また、こころを開いているから、のびのびと投げてくれたりする
しかし、
投げ方や受け取め方を指定して、それなのにキャッチャーミットも狭いのでは、一体どうなってしまうのでしょうか


同様に、会話についても
返答や受け止め方を、指定してしまってはいないでしょうか?
利己的に、自分の許容する範囲を、相手に求めていないでしょうか?
傷付きたくなくて、怒りを用いて、道徳観を用いて、社会というマジョリティを用いて、自己防衛をしますが、
よく見ると、相手の返したボールが、まぼろしになっていないでしょうか?
本当に、相手のボールでしょうか?
相手と、まぼろしの繋がりに、なっていないでしょうか···?



厳しい書き方になりましたm(_ _)m
互いの違いは、互いの溝になります
そして、感傷的に陥らないとも限りません
本当は、お互いがお互いのままでいいと、思っているにもかかわらず···
自我の防衛と他者理解のはざまで、人は苦しむのかもしれません

まだ書きたいことは、あるのですが
長くなったので、これはまた改めて···
最後まで読んで下さり、大変有難うございました