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【林田と一緒に三国志(2)】呉下の阿蒙に非ず・呂蒙

どうも。林田です。

林田と一緒に三国志シリーズ、第二弾です。

前回は魏の武将・張遼をクローズアップしましたが、今回は表題にある通り、呂蒙という人物を紹介していこうと思います。

▼第一弾はこちら


貧しい家に育ち、人殺しをして逃亡した若き呂蒙

呂蒙は貧しい家に生まれ育っていました。

呂蒙の姉の夫は鄧当という人物で、呂蒙の後の主君となる孫策配下の人物でした。
鄧当は、「山越」と呼ばれる異民族の討伐部隊の部隊長を任されていました。

15歳の時、若き呂蒙は勝手に鄧当の山越討伐軍に付いて行き、鄧当にこっぴどく叱られますが、家に戻らずに従軍していったそうです。
その後、鄧当は呂蒙の母に勝手に呂蒙が従軍したことを伝え、母も呂蒙をひどく叱ります。
しかし、呂蒙少年は母に「貧しい今を打開するには、危険を冒してでも功を出さないといけないんだ!」と反論します。
この言葉に母は息子(呂蒙)を哀れみ、以降、何も言わなかったそうです。

そんな貧しい毎日を送っていると、呂蒙はとんでもないことをしでかしてしまいます。


なんと、呂蒙のことを馬鹿にした、鄧当に仕えていた役人を殺してしまいます

呂蒙は逃亡しましたが、最終的に袁雄という人物に自首します。
しかし、呂蒙に面会を求めた孫策は、呂蒙の非凡さを見抜き、側近に取り立てます。

こうして、呂蒙は主君・孫策の配下となり、孫呉でその名をどんどん轟かせていくことになります。

孫策軍に入り、功績を積んでいく

孫策軍に所属してから数年後、姉の夫である鄧当が死去すると、彼の軍は丸々呂蒙に与えられ、軍団長となります。

しかし、その後すぐ、孫策は26歳という若さでこの世を去り、孫策の弟である孫権が孫策軍を継ぎ、呂蒙はそのまま孫権の配下として軍に残ります。

ちなみに余談ですが、孫権が孫策の後を継いだとき、呂蒙は22歳、孫権はまだ18歳でした。この年齢は、執筆当時の林田よりも年齢が下です。
孫策の義兄弟で孫権の補佐を託された孫策軍の頭脳・周瑜ですら、まだ25歳という若さです。周瑜の後継となる軍師・魯粛もこの時はまだ28歳。
かなり若い年齢の人物たちが軍の上層部であるという、驚きの軍組織です。

呂蒙は、孫策の死後、孫権軍の部将として数々の戦功をあげて、いつしか軍の中心となるような将軍となります。

呂蒙は、孫策・孫権の父である孫堅の仇である黄祖という人物が率いる軍との戦いで先鋒を務め、自ら黄祖軍の要・陳就を討ち取り、黄祖を捕らえるきっかけを作ったとされ、その功績で将軍位を得ている。
また、三国志で非常に有名な戦・赤壁の戦いでも曹操軍を多く打ち破る功績をあげ、その後の南郡という場所での曹操軍との戦いでも、曹操軍の重鎮・曹仁が率いる軍を打ち破っている。

呉下の阿蒙、覚醒する

孫権のもとで功績をあげ続け、孫権軍の中心になりつつあるほど出世していく呂蒙ですが、なんと、子供の頃から文字を読むことができないほど無学でした

そんな呂蒙に、孫権は「教養は大事、勉強した方が良いぞ」と勉強を促します。
呂蒙は「忙しいので」と一度は断りますが、孫権は「一軍を束ねる私でも忙しい時間の中ででも勉強ができた。絶対に呂蒙でも勉強できる。私は勉強したことで、多くを学び、益を手にしたのだ」と説得して、呂蒙はついに勉強を始めます。

呂蒙も忙しい中勉強に励んだことで、いつしか当時の学者にも勝る量の知識を得ることができました

そんなある日、周瑜の後任で赴任地に向かおうとしていた魯粛は、偶然呂蒙の前を通りかかり、魯粛は戯れにと呂蒙に色々な質問をします。
すると、魯粛の思い描いた返答とは正反対に、なんと呂蒙はすべての質問に対してすらすら答えてしまいます。
更に呂蒙は、当時孫権軍の脅威になりつつあった関羽に対する策を魯粛に与えます。

この呂蒙の覚醒ぶりには流石の魯粛も大きく感心し、「呉下の阿蒙に非ず」と呂蒙を評します。

「呉下の阿蒙に非ず」は今でも故事成語として言葉は残り、伝えられています。
ちなみに、「阿」は「赤ちゃん」といった趣の言葉で、簡単に今の日本語に直すと、「赤ちゃん蒙くんは、もういない」といった感じでしょうか。
転じて、「勉学に励み、進歩した人物である」といった褒め言葉として使われます。

呉下の阿蒙」と、「非ず」を抜いて使われることもありますが、この場合は「いつまで経っても進歩しない人物である」と、悪い意味で使われます。


僕も呂蒙に見習い、「呉下の阿蒙に非ず」生きていきたいです。


軍神・関羽征伐

曹仁率いる曹操軍との戦いの後も、曹操軍との戦いで孫権軍の中心として戦場を転々とします。

第一弾の張遼で取り上げた「合肥の戦い」にも呂蒙は従軍し、この「合肥の戦い」では孫権軍は敗北しますが、追撃に来る張遼に対して、孫権を守るために必死に戦い抜き、主君孫権を守り抜きました。

その後、曹操自ら率いる曹操軍と「濡須口」という場所で戦になりますが、この戦で呂蒙は奇襲作戦を実行して成功させ、曹操軍を撤退させます。

「濡須口の戦い」から数年後、孫権軍は関羽征伐を本格化させ、呂蒙は、関羽征伐軍の軍権を担うことになります。

呂蒙は関羽が曹操軍領の「樊城」というお城の攻略で忙しいことを知っていたので、孫権軍対策を怠らせる策を講じ、関羽に知られていない孫権軍の才能溢れる若き人物・陸遜を関羽征伐軍の要に抜擢し、下手に出ることで関羽を油断させることに成功します。

そして関羽は曹操軍に敗走した上に、孫権軍の奇襲部隊によって軍が瓦解し、関羽は関羽の息子・関平と(三国志演義では関羽、関平と一緒に、関羽の舎弟・周倉も)共に逃亡しますが、ついに関羽らは孫権軍によって捕らえられ、孫権は捕らえられた関羽の前に立ちます。

三国志は、実際の歴史が書かれた「三国志」と、三国時代から1,000年後に作られた、実際の歴史を基に脚色を加えられたフィクション小説のような三国志である「三国志演義」の2つがあり、このコラムシリーズでは「三国志」をベースに執筆している。
なお、「三国志演義」にのみ登場する架空の人物が多く存在し、上記の関羽の舎弟・周倉は「三国志演義」にのみ登場する人物である。
また、「三国志演義」では関羽の息子・関平は、実子ではなく養子になっている。

孫権は、関羽を孫権軍に組み込み、曹操軍・劉備軍に当てようと思い、一瞬殺すのを躊躇いますが、配下に諭され、ついに関羽は斬首されます。

こうして呂蒙は関羽征伐を成功させ、莫大な褒美を受け取り、孫権軍の重鎮となりました。

しかし、関羽征伐直後に呂蒙は病に伏せてしまい、そのまま呂蒙は42歳という若さで帰らぬ人となりました。

なお、呂蒙が関羽征伐軍に抜擢した陸遜は、呂蒙の立場を継ぎ、関羽の義兄・劉備が孫権軍に対して関羽の弔い合戦として開戦した「夷陵の戦い」で、孫権軍の総指揮官に任命され、劉備軍を大敗させることに成功します。

呂蒙から学ぶ、今にも通ずること

ここまで呂蒙について説明してきましたが、皆さんはこの呂蒙という人物についてどう思いましたか?

僕は、「熱心な人物」だと思ってます。

子供の頃は、勉強も出来ず、怒りに任せて人を殺すなど、とても褒められた人ではなかったですが、主君・孫権に促されて勉強を重ね、いつしか文武両道の軍の重鎮になる。
非常に素晴らしい生き様だと思います。

流石に僕は人を殺したりしたことないですが、子供の頃はあまり勉強ができる方ではなかったので(笑)。
ですが、自分でこんなこと言うのもなんですが、専門学生時代はゲーム開発に関して多く学び、ゲーム開発会社に内定をいただき、就職することできました。
更に、学びと一緒に、色々な場に行くことで、色々な人と触れ合い、色々な知見を手に入れ、今の独立に至っています。

更に、呂蒙は若き才能、陸遜を発掘したりしています。
呂蒙が人材育成をしていた話は残っていませんが、このように人材を発掘できる鑑定眼があるのも個人的には羨ましいです。

今の時代も、「忙しさを理由に、何もしない」という方もいらっしゃるのかもしれませんが、この呂蒙の生き様を思い出してみてください。

僕も「呉下の阿蒙に非ず」
今に満足せずに、多くを学び、クリエイティヴな業界で頑張って参ろうと思います。


今後も僕が今の時代でも通ずる功績や事績を残した三国志の人物を紹介できればと思いますので、三国志が好きな方やこのような歴史の事柄を現代に転化した内容の記事に興味を持った方は、是非フォローしてみてください!(Youtubeでよくある「チャンネル登録とグッドボタンよろしくお願いします!」みたいなノリ)


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