見出し画像

アンダルシアのひまわり畑にて、父と私の物語完結。

先日、20年越しの夢を叶えるべく、夫とともにスペインのアンダルシアに行ってきました。

遡ること20年前。
2003年に放送していたTOYOTA ”wish”のCMを父と見ていた時「2人で必ず行きたいね!」と感動を受けた場所がアンダルシアのひまわり畑でした。

CMでは、宇多田ヒカルの"Colors"がBGMでアンダルシアの広大なひまわり畑を背景に初代wishが颯爽と走り抜けている映像が今でもはっきりと思い出せます。

当時私は12歳でした。
フローリストの父と必ずアンダルシアに行くと疑う余地もなく、いつかの将来にワクワクしていました。

しかし、2年後の私が14歳になる2日前の日に父は亡くなりました。
父にどうか最後まで頑張ってほしくて、最後に送ったメールは「一緒にアンダルシアにひまわり見に行こうね!」でした。
これを見た父が元気になるように。どうか、最後まで希望が持てるように。

残念ながら願いは叶わず、父は亡くなってしまいました。

父が亡くなってから、1日足りとも父を忘れた日はありません。
それは悲しいとか寂しいとか、そういうネガティブなものではなく、なんとなく頭にポッと出てくる。そんな感じです。

そして頭の片隅にいつも「いつかアンダルシアのひまわり畑に行かなくちゃ」という気持ちがありました。

もはや、行きたいという気持ちより父を連れて行ってあげなくちゃ。という責任感になっていました。

そんな事を思いながらも、なかなか行ける機会は訪れず。
6月の限られた時期にしか咲かないひまわり。さらに、日本から行くとなるとお金も時間も膨大にかかります。

そうこうしているうちに、私は素敵な夫と出会い結婚をしました。
家族みんなに祝福されて本当に幸せでした。

が、「私たちは幸せだけど・・・大丈夫?父だけ時間止まってて、父の幸せ取り残されてない!?」と天国の父が急に心配になりました。

実際、私の心配なんて亡くなった父にとっては余計なおせっかいかもしれませんが、父との夢をまだ叶えられていない後ろめたさなのか、「アンダルシアのひまわり畑に行く」という責任感は増していきました。

ある日、旅行好きの私たち夫婦は、お互いにどこに行きたいかを話していました。
夫はアメリカの大学を卒業しているのですが、大学在学中に短期留学で行ったサントリーニ島に行きたい。とのことでした。

私は、やっぱり「アンダルシアのひまわり畑に行ってみたいんだよね。」と言いました。

いつも、どんなことも寛大な心で受け止めてくれる夫なので、なぜアンダルシアのひまわり畑に行きたいかも言いました。

夫は「行こう!近い将来必ず行こう!」と言ってくれました。

この時夫のオーストラリア駐在に帯同をしていたのですが、本帰国のタイミングでコロナが大流行。
日本帰国後は、アンダルシアのひまわり畑はおろか、実家の母に会いに行くのさえも憚られる事態となりました。

さらに、コロナ禍でもともと働いていた職場への復帰、30歳を目前にキャリアや出産のプレッシャーなど心がどんどん弱ってしまいました。

自分の夢や、やりたい事に反して社会のプレッシャーに押しつぶされそうになっていく毎日でした。
ある日、出張帰りの東北新幹線の中で「私何やってるんだろうな~」と突然涙が出てきて同時に「あ、もう私無理だな」と悟りました。

夫もちょうど関西にある実家から帰ってくるタイミングだったため、東京駅で待ち合わせをしていたのですが、夫の顔を見るなりボロボロと涙が止まらず。

「私もう無理かも~海外の海でも見てゆっくりしたい~」と泣いたら「いいね!海外!」と。

この時、私の中ではちょっと仕事を休んでハワイにでも。くらいの気持ちだったのですが、夫の頭の中では「海外移住」が思い浮かんでいました。

翌日から夫はGoogleマップを片手にどこが良いかな~と世界中の都市を調べ始め、1週間経つ頃には行きたいビジネススクールや大学院まで具体的に調べ始めました。

そして私。「おや?これは、海外移住?」と夫とのすれ違いに気づき始めましたが猪突猛進型の夫は止まりません。

「ドイツって学費無料なんだって!俺、アメリカもオーストラリアも住んだから、ヨーロッパがいいんだよね。ドイツはどう?」と。
もうこなったら、夫の船に乗るしかありません。意図は違えど海外に行きたいと言ったのは私ですし。

そうとなったら、私だってずっとやりたかった事を叶えたいと思い、父と同じフローリストになるべくドイツでフローリストになる方法を調べ始めました。

これが、私がフローリストになるきっかけとりました。

幼いころからフローリストの父の背中を見て、花と木に囲まれた家で育った私がフローリストを目指すのは自分でもとても納得のいく新たなキャリアでした。

母は、また海外に行ってしまう娘夫婦を寂しそうに、でも「人生は1度きりだから」と見送ってくれました。

そして2022年6月、私と夫は新天地ミュンヘンへと向かいました。

私は運よく、ドイツに行く前から問い合わせをしていたフラワーショップに採用してもらい9月から本格的に働き始めました。

とても素敵な仲間たちに囲まれ、大変なこと以上に嬉しいことや学ぶことがあり今も毎日感謝の気持ちで働いています。

そして、夫が2人で行きたいと言っていたサントリーニ島にも行け充実したヨーロッパ生活を過ごし、それぞれ夢に向かって走り続けていました。

しかし、2023年1月母が体調を崩したと姉から連絡がきました。もともと軽度の免疫疾患を患っていたのですが、突然病状が重くなったとのこと。
抗がん剤治療を必要とするほどでした。

コロナにより病院に行っても面会は出来ないため、ドイツからただただ毎日祈る事しかできませんでした。

その後3ヵ月ほど母は入院生活が続いたのですが、病院の先生、看護師さん、理学療法士の方々、そして近くに住んでいた親戚や友人、姉の献身的なサポートですっかり元気になりました。

父を亡くしてから、人って案外すぐに死んでしまう。と、どこかトラウマになっていたのですが、母の回復はそのトラウマを和らげてくれました。

それをきっかけに私は「家族の夢を叶える」という新たな目標ができました。

人生100年時代。とは言え、人はいつ死ぬか分からない。お父さんの夢だけでなく、お母さん、お姉ちゃん、夫、夫の家族、些細なことでも良いから夢を叶えようと誓いました。

そして2023年6月、20年間叶えられなかった夢を叶えにスペイン アンダルシアの地に降り立ちました。

ミュンヘンから3時間ほど。あっという間に着きました。

6月中旬で既に38度ほどあるスペインは、温暖な気候のせいか穏やかな人々が多く「情熱の国スペイン」というよりは「温厚な国スペイン」のイメージでした。

スペインに着いた翌日、事前にお願いしていた日本人のガイドさんとともについにひまわり畑に向かいました。

温暖化のせいか少し時期が遅かったようですが、それでも見渡す限り地平線まで続くひまわりに言葉を失いました。

ガイドさんが世界一のひまわり畑がウクライナにあるけれど、今年はもちろん生産出来ておらず、その代わりにアンダルシアが例年より多く生産すると教えてくれました。

綺麗に咲いているポイントでドライバーさんが止まってくれて、たくさん写真を撮らせてくれました。

ひまわり畑を歩いている途中、夢なのか現実なのか分からなくなり、なんだかボーっとしてしまいました。
私がひまわりを見渡している間、夫はたくさん写真を撮ってくれました。

フラフラとひまわり畑を見渡しながら歩いていると、灼熱の大地に生ぬるい風が吹いて、ずっと心にあった生きているうちに父の夢を叶えられなかった後悔や形容し難い悲しい気持ちがスッと消えました

驚くほど、気持ちが軽くなり、代わりにここに連れてきてくれた夫への感謝が溢れました。
この夢は、私が叶えたのではなく夫が叶えてくれたんだ。と涙がこぼれました。

20年かかりましたが、父が見れなかったひまわり畑に最愛の夫が連れてきてくれたこと。
なんて温かい人生なのだろうかと、今までの悲しみや苦労もすべて浄化されました。

誰も知らない、どこにでもいるごく普通の父と娘の夢ですが、私たちにとっては壮大な夢でした。

20年間、私を奮い立たせてくれてありがとう!

これにて、父と私の物語完結。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?