日本の数学 #004

 かやうに申上げては見ましたものの、その当時伝はりました支那数学者の中には、案外に高級なものも含まれてゐるのですから、それを実際に、わが日本人は、どの程度まで学び得たのか、どれだけ消化し得たのか。――かう云ふ問題になりますと、今日までのところ、殆んど不明なのであります。
 ところが平安朝の中頃から、わが国の文化が健康性を失ふにつれまして、天文や暦の研究も、全く進歩性を失つて、卜筮陰陽の術となり果てましたが、それに伴つて数学もまた衰へたのであります。それでも、租税の勘定とか、土木建築とか、或はまた戦争などに、直接に必要な算術や幾何図形の概念などは、それぞれの技術家の間に、伝はつたには相違ないのです。
 そして足利時代になりますと、もう「割算を解する者さへも、殆んど稀であつた」などと、或る数学史家は云つてゐる位なのですが、この辺の正しい事情については、今日まで調査が少しも行き届いてゐないのです。しかし一方、足利時代こそ、社会的にも経済的にも文化的にも、わが国の近世へと移り行く過渡期であつたことを考へますと、上のやうな想像説は、私には全くどうかと、思はれる次第であります。
 いづれにしましても、斯やうにわが国には、千数百年前から、支那の相当に立派な数学が伝はりましたけれども、わが国の事情は、それを育て上げることが出来なかつた。この第一次の支那数学の輸入は、あまり成功せずに終つたと、結論し得るかと思はれます。

  戦国から徳川時代へ

 ところが戦国時代の頃から、豊臣時代にかけまして、もう社会の事情は、一変して参りました。今やわが日本は、近世的な封建社会を目指して、統一への過程を進んだのであります。
 その間に行はれた軍事技術の革新、築城術の進歩、鉱山の開掘、貨幣の鋳造、水利事業、そして大規模な検地けんち。それと同時に、商業は勃興しました、交通も発達を遂げました、多くの都市は段々栄えて参りました。海の彼方からは、もつと早くから既に西洋人がやつて来て、キリスト教と共に、ある技術を伝へて居ります。
 かう云ふ事情は、武士にも商人にも、その他の職業者に取りましても、或る程度まで、数学の必要を促す。――さういつた機運に向つて来たのでありました(第3図)。
 丁度その際に、朝鮮の役(西暦1592―1598)が始まりました。その間に、またそれと前後して支那の文化に接触する機会を得まして、こゝに第二次の支那数学の輸入が、行はれることになつたのであります。即ち支那の数学書――例へば、「算学啓蒙」(元の朱世傑の著、1299)(もつと後の第23図参照)とか、(第4図及び第5図)などの類――さう云ふものが、多くは朝鮮版を通じて、伝はつて参りました。

…#005へ続く

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