お金という道具

何にせよ、安売りのお店というのが苦手だ。食べるものにせよ、着るものにせよ、家具や雑貨にせよ、サービスにせよ。そういう自分を我ながら、「高慢ちきで嫌な女」だと思ってきたから、極力見せないように、気づかれないようにしながら安売りのお店を避けてきた。
世の中の常識はどうやら「安いことは良いこと」らしいので、その常識に反する行動は目立たないようにしようという心理も働いていたけど、安いお店というのは誰かと連れ立っていくような場所でもないことが多いので、それほどのストレスはなくこれまで生きてきてしまった。

そうは言っても若いころはお金もなかったから、安いお店を避けていたら必然的にお金が足りなくなる。会社の後輩に「ホントに借金してないんですか?(笑)」と揶揄されることもあったが、少なくともそのとき手元にあるお金の範囲内で、手の届く範囲のものを買って暮らしてきた。(20代の小娘が数万円もするニットを買うとか、金銭感覚のバグった人である自覚はあった)とはいえ、わかりやすいブランドの商品も苦手なので、実は購入できるものが少ない。だからなんとなくやってこられたのかな、と思う。

なぜ、「安売りのお店」が苦手なのだろう。とふと考えた。

ディナータイムの飲食店ではお酒を飲まないと申し訳ない気持ちになる。それは、お店の利益率が最も高いのはアルコールだと思っているからだ。

セール時期の百貨店は苦手だ。それはスタッフは多忙なのに利益を削った商品を売っていると思っているからだ。

クーポンを使うことは苦手だ(ほぼできない)し、もらっても嬉しくない。それは、「使えません」と言われるのが怖いから=小さなプライド?だと思っていたけど、そうではなくて、(いや、それももちろんあるけど)クーポンは利益率向上につながる施策だとは思えないからだ。

どうやら私は、世の中の商売がみんなうまくいってほしいと思っているらしい。

お金をもらう側=商売をしている側=お店や企業 の立場のとき、利益が多いことは正義となる。ときに売上が高いことも。(余談だが売上と利益の関係に世の人は随分無頓着だとも思う)

お金を使う側=消費者の立場 となったとき、商品やサービスが安いことは正義となる。

この安直な二律背反が、どうにも気持ち悪いのだということに、今更気づく。

以前から私は農業や漁業といった一次産業に従事する人たちはものすごく尊いと思っているが、世間的評価が低いのがずっと不思議なままでいる。彼らがいなければ、我々は生きていくことすらままならないのに、なぜ、農業を営む人は会社勤めの人より下に見られることが多いのだろうかと。
そして、彼らがなぜ経済的に豊かになりにくいのかも、昔から疑問のままだ。


「仕事」とは、①誰かの役に立って②適正な対価を頂くこと、だと思っている。どんな仕事であれ、そうであるべきだと思うと、「適正な対価」の難しいこと。対価は必ずしもお金に限らないけど、お金が最もわかりやすい指標でもある。
稲盛さんが「経営のキモは値付け」というようなことを言っておられたと記憶している。私は不動産屋という職業に従事しているので、日常的に値付けをするし、「適正な価格」というものに対する感度は高いのだろうなと思う。物件に限らず自分の仕事に対する値付けも、割と日常的に行うから、やればやるほど安売りが苦手になっていく。

物を買うとき、定価と割引価格が併記されていることは多い。でも、何かを安く売ることは、そこに従事する人の仕事に対する心を削っているような気がする。

粗悪なものが安いのは当然だけど、ちゃんとしたものが安い、というのはやはりそのものの価値ではなくて、何かを毀損した結果の安さなのではないだろうか。本来、人の人生を豊かにし、社会を豊かにするためのすべての「仕事」が、人の心を毀損するものと認知されていることと、さまざまな商品が「安いことは良いこと」とされていることは、全く違うことのように見えて、表裏一体のことのように思う。

お金はものの価値を表す一つの道具にしか過ぎない。だから私は必要なものを買うとき、その値段にほとんど頓着しない。必要はないけど欲しいと思った物の時は、値段と自分の財布と相談することが多い。

本来、ものの金額には理由があるのだから、なぜその値段なのかが示されていれば、もう少し色々なことが明朗になるのかもしれない。そして、本来持つべき人が価格決定権を持つべきだ。市場の論理とか需要と供給のバランスとかではなくて、その商品を作った人が作った価値をお金という道具によって示すことが、本来のあり方のような気がする。


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