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人は平等とうたいつつ、世の中は平等ではない

わたしは三姉妹の真ん中である。次女だ。同じ家庭環境で育ったのに、三人とも性格や生き方は見事にばらばらで、顔も似てない。街を一緒に歩いていたら、ほとんどの人から友達同士と間違われる。姉はとても自由な人間で、旅行が大好きだ。20代のころは職を転々とし、仕事でお金を貯めては数ヶ月かけて旅へでる、ということを繰り返していた。反して、わたしはかなり安定思考の慎重派。石橋を叩きまくって割ってしまうタイプだ。ずっと正社員でほそぼそと働き、金太郎飴を切ったかのような毎日を送っている。対象的な姉二人を見て育ったからか、末の妹は柔軟性に富んでいる。人一倍やさしく、気遣いに長けていた。接客業で数年働いたあと結婚し、いまは離れた土地で子供を育てている。

今回のコロナ禍に対する反応もそれぞれで、姉は関心が薄く無頓着、妹は人並みに意識、わたしはかなり神経質になっている。同じ屋根の下で育ってきたのに、なぜこうもちがうのか、いつも不思議に思う。

こんなふうに、性格も外見もまったくちがう三人なのに、昔から不思議と仲はよかった。実家をでてそれぞれ自立して数年たつが、大人になった今もほどよく距離をおいて付き合えているのは、有り難いことだ。三人三色なわたしたちがどうして仲違いせずに過ごせているのか。それは、ひとえに親が私たちに対して平等だったからだと思う。接し方にちがいはあれど、姉や妹ばかりを可愛がって〜みたいな贔屓は、昔から一切なかった。三人ともやりたいと言ったことは基本的にはやらせてもらえたし、不自由をして過ごすということがなかった。

「比べる」ということに対して、人は何歳になっても敏感だ。大人になっても常になにかと比べ、優れている劣っていると自分の芝の不出来を嘆いて、たゆたっている。子供のころに親にそれをやられたらきつかっただろうな、と思う。だから、この点においてはわたしは両親にとても感謝している。

一家庭の姉妹でもこうなのだから、社会にでたら本当にいろんなひとがいる。会社はまるで動物園のようだ。檻の内外で比較したりされたりして、人間は生きている。親がずっと平等に接してくれたわたしにとって「平等」とは当たり前のことだった。だから、平等に接してくれない人間がいることに、たびたび苦しんだ。あからさまに態度を変えられたり、扱いに差をつけられたり、そういうことが起きるたびに何で?といちいち傷ついていた。社会にでて数年たち、多少理解もしたけれど、今もそのことに対してときどき苦しくなる。人は平等であるべきとうたいつつ、世の中は平等ではない。強いもの、弱いもの、運がいいもの、恵まれなかったもの。本当にいろいろだ。それが良いとか悪いとかではなく、現実的にはそうなんだろうな、と受け止めつつ過ごしている。たぶん、ここを落とし込めていかないと、人生というものが分からないんだと思う。

転職してから、自分のなかで一つ心に決めたことがある。それは「身近な人に平等に接する」ということだ。身近な、というところがポイントで、けして平らではないこの世の中で、だれもかれもは無理だから、せめて自分の周囲にいる人間にはそうやって接するように心がけている。それができる人間に、なりたい。

なぜこんなことを書いたのかというと、今朝夢を見たからだ。姉と妹と一緒に、なぜか夜中に美容院へいく夢だった。姉は髪をファンキーなピンクのメッシュに染めてさっさと帰ってゆき、わたしはいつもと同じ感じに切ってもらい、妹はわたしが終わるまで待っててくれた。なんの暗示か気になったので、このあと夢占いで調べてみることにする。

そういえば、次女と書いてなんで「姿」という漢字になるのだろう。勝手な想像だけど、この文字にはなんとなく「先の者との比較」という意味あいが隠れてるような気がしてならない。比較しないと、人は自分の姿がよく分からない。どうだろうか。今度姉と妹に会ったら、聞いてみようとおもう。

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