40年を1日で壊す責任
「ウィーン、ガタガタ! ガタガタ!」
電動ノコギリの刃がコンクリートブロックに食い込んではどんどん壁を破壊していく。わかっていることだけれど、ガーデンリフォームの初日のこの瞬間が私は苦手だ。強烈な金属音がコンクリートの悲鳴に聞こえる。
40年前にお父様の代に建てられたこのお宅は8年前の震災の少し前に私の友人の建築士がリフォームして中はすっかりモダンに。外観も綺麗になっている。
それに比べて門構えは確かに昭和なイメージのまま。当時は新しかったと思われる大谷石風の化粧ブロックはすっかり汚れて、時代遅れのブロンズ色のフェンスがより一層、建物のモダンさとの相違を際立てていた。お父様がどこからか集めてこられて自分で作られたという緑色の石の花壇も、全てそれは現代のモダンなライフスタイルと合うものではない。
初回打ち合わせした時のご夫婦が最初に言われたことは
「庭がこんな風ですので、庭でバーベキューとかはおろか寛ぎたいとも思わないんです。父が大事にしていた庭ですが。。。」
だった。そのお気持ちはよくわかる。そして今回私がご提案した計画は
この「古めかしい」お庭をモダンで「過ごしやすい」庭にするというもので、完成したら良い雰囲気になるはずだ。
解体しないとその庭は作れない。だから解体の爆音をもっとも喜ばしく思うべきなのは私のはずなのに。それなのにどうしても辛い。
庭は工事が終わった日が完成ではない。木々が成長し、石が苔むし、家族の思い出が染み込んでゆっくりゆっくり時間をかけて作り上げていくものだ。
40年前にこの土地に越してきて、それからじんわりじんわり作り上げた庭がたった一日で大方解体されてしまう。それはこの庭の全体の歴史からしたらほんの一瞬のようなものだ。
私にはこの庭の思い出は当然ながらない、むしろここで育ったご主人の方が思い出が壊されることへの強い思いがあるはずだ。
私がここで感傷的になるのはふさわしくない。感情が矛盾しているのは理性ではわかっていても、そう思うことはやめられない。
そしてそういう気持ちにいつまでも敏感でありたいとさえ思っている。
この感情がなくなったら、物作りはおしまいなんだと思っている。
切なさを心の奥にしまいこみ新しいプランを頭の中の3D映像で描いてみる。
感傷に浸るのは今日だけにしよう。
リビングではお子さんがつけたテレビが新しい時代の名前を発表しようとアナウンスしている。
新しい時代の名前が告げられたその日にこの庭は着工した。
「令和」の時代をまるっとそのまま生き続け、可愛がられる庭になって欲しい。と思うのはデザイナーのエゴなのだろうか。
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