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「自分らしく生きる」は誰でもできるし、世界平和に繋がるはず!〜「無理ゲー社会」を読んで感じたこと〜

「自分らしく生きる」とはどういう状態を言うのでしょうか?
私は、無意識に自分を縛っている固定観念がとても多くて、それに苦しんでいたことに気づいてから、
「不要な固定観念を捨てて、自分の好きに忠実に生きること」が「自分らしく生きること」だと考えています。
そしてそれが「幸せを感じられる自分」になるための第一歩だと信じています。
そんな風に自分も生きていきたいし、生きられる人が増えたら良いなと思っています。


そんなことを考える日々を送っていたのですが、
あるきっかけがあって「無理ゲー社会」という橘玲さんの本を読みました。


あなたがいまの生活に満足しているとしたら素晴らしいことだが、その幸運は「自分らしく生きる」特権を奪われたひとたちの犠牲のうえに成り立っている

橘玲(2021).  無理ゲー社会 小学館

本全体の内容はさておき、あとがきにあったこの文章がずっと私の中で引っかかっていて、どうしようもなくずっとこのことについて考えてしまっています。
引っかかっている理由は、私は「いまの生活に満足している」人でそのことを嬉しく感じていて、いまの生活に満足している人を増やしたいという思いがあって色々と発信をしているからです。そして今の私の幸せが「誰かの犠牲のうえに成り立っている」とは考えたこともなかったからです。
むしろ「全人類が自分らしく生きること」が「世界平和」につながると信じています。

そもそも「自分らしく生きる」とは?

「無理ゲー社会」の中で「自分らしく生きる」という言葉は何度も出てきますが、はっきりとどのような状態を指すのかの定義はされていません。けれども著者の中で前提となる考えがこのように書かれていました。

上級国民 知識社会・評判社会において、「自分らしく生きる」という特権を享受できるひとたち
下級国民 「自分らしく生きるべきだ」という社会からの強い圧力を受けながら、そうできないひとたち

橘玲(2021).  無理ゲー社会 小学館

つまり「自分らしく生きる」ことは「特権」であり、「上級国民」しか享受できないものであり、「下級国民」は自分らしく生きたくても生きられないということです。

本当にそうでしょうか?
「自分らしく生きる」というのは主観的な判断であるはずなのに、著者の定義では「知識社会・評判社会において成功している」=「自分らしく生きる」
という客観的な評価が「自分らしく生きる」ことに入ってしまっているように感じました。

著者のいう「下級国民」であっても「今の生活に満足して自分らしく生きている」と感じている人もいるはずですし、「上級国民」であってもむしろその社会的地位や立場を守るために自分を押し殺して「自分らしく生きられていない」と感じている人もいるはずです。

無理矢理「自分らしく生きる」というキャッチーな言葉を使って、二項対立させて社会の分断を強めようとしているように私には感じられて悲しくなりました。

でも正直に言うと、著者の言うところの「下級国民」に分類される人で「自分らしく生きられない」と苦しんでいる人の生の声を聞いたことがないので、そういう人がいるとしたらどんな気持ちでどんなことで悩んでいるのだろう?と知りたいと思いました。

「自分らしく生きる」ことは誰かを犠牲にしているのか?

「自分らしく生きる」というのは、そう感じられているか主観に基づくものだと私は考えます。
客観的には貧乏だろうが学歴がなかろうがどんな仕事をしていようが、日々に満足をしていて「自分らしく生きている」と感じていれば「自分らしく生きている」と言えるはずです。

「自分が自分らしく生きていると感じて、日常に満足しながら生きている」ことって果たして誰かの犠牲がないと成り立たないことなのでしょうか?
むしろ誰にも迷惑をかけずに「自分が幸せを感じる」ことができるのではないでしょうか?

だからこそ、客観的な収入などの状況がどうであれ
・「今の生活で満足できるポイント」を見つけられるようになること
・自分にとっての理想を描けるようになること
・自分の理想を実現させるために行動できるようになること
が「自分らしく生きる」ためには必要だと思います。

客観的な成功とか評価は別として「主観」を大切にして「自分がどう感じているのか」にフォーカスして自分で自分を満たしてあげる。
それが「自分らしく生きる」ことに繋がって、幸せを感じられる人が増えていくと信じています。

とはいえ「格差社会」は事実

「格差」と「自分らしく生きる」こととは直結するものではないと思いますが、「格差」によって苦しんでいる人がいることは紛れもない事実だと思います。

そして社会的に評価を得られなかったり、収入を得られなかったりすることが続いたことで「自分らしく生きられていない」と感じている人たちもいるんだと思います。
でも綺麗事なのかもしれないけど、どんな状況でも「あるもの」に目を向けて感謝することはできるし「自分にできること」は絶対にあると信じています。だからと言って、「そうしなさい」と言われて簡単にできることではないし、現実の捉え方を変えることはとても難しいことだとも思います。

そこに「コーチング」が効果的なんじゃないかなと感じています。
今あるものに目を向けて、自分と真剣に向き合って、本当に大切にしたい価値観を明らかにして、それを大切にするために少しでも行動してみる。
そんな繰り返しをすることで、今とは違う自分になっているかもしれないけど、「自分らしく生きている」と感じられることが増えていくって信じています。

「自分らしく生きる」は誰でもできるはず!

「無理ゲー社会」を読んで、「自分らしく生きる」ことが誰かの犠牲の上に成り立っているものなのかもしれないと不安になり、色々と考えたことを書いてきました。

もちろん色んな立場の人がいて、色んな意見があるとは思いますが、
「自分らしく生きる」は自分がそう感じられる状態のことで、
「自分らしく生きている」と感じることは、難しいことはあるかもしれないけど
どんな状況であってもできること

だと私は信じています。
そして「自分らしく生きる」ことは個人の幸せにも世界平和にも繋がると信じています!

「無理ゲー社会」を読んだことで、最近の私のテーマでもあった「自分らしく生きる」ということをじっくり考える良い機会になりました。
やっぱり私は自分も自分らしく生きて、自分らしく生きられる人を増やしたいです!そして色々な立場の人に対して働きかけができたら良いなと新たに思いました。


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