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20歳でくたばると思っていた私へ

 画像は人生の最後にかけられたい言葉です。文章内で特にシャニの話をするわけではなく、ただ己の自我をなすり付けているだけ。
 これは簡単な自己紹介のようなものですが、高校2年生頃から不眠症状が出たことをきっかけに転がり落ちるように社会不適合者の型に嵌りました。
 多少話はズレますが、当時私の見える範囲のインターネットはスラム街の如き治安でした。ミソジニーと手垢にまみれた性欲の蔓延る、流行の美少女ゲームのコミュニティ内で、どうにか身内と呼べるようなフォロワーは片手ぴったり。そして全員が非定型発達と抑うつ持ち。「いつか障害者手帳メンコバトルをしよう」と悪趣味なジョークを飛ばしていたものです。現在はやる気になれば実現できるところも含めて最悪ですね。まあその頃は流石に手帳持ちになることはなかろうとタカをくくっていたからの言葉だったのですが……(そちらのほうが最低ですが)。
 ちなみに彼ら彼女らはほぼ同い年です。全員が人生に対する何らかの諦観と多大なモラトリアムを抱えていて、「大人になる」のを怖がっていました。世間一般の言う「大人」になれる気も、なりたい気もせずに思う存分、希死念慮を肺いっぱいに吸い込んでは上手く息を吐くことができずにいる。少なくとも私はそんな感覚だったように思います。今だってできていない。
 これは比喩でもなんでもなく、私は作業に集中すると呼吸を止めてしまうのです。タッチのOPの〝呼吸を止めて 一秒あなた真剣な目をしたから…〟状態。呼吸が浅いな、と思ったときには酸素を取り込むよりも二酸化炭素を吐き出すほうが有効であるという気付きから、手元には常にVAPEを置くようにしています。ライフハックです。
 ああ、ちっとも本題に入らない。こういうぐだぐだの前置きばかりで結論に辿り着かない悪癖、英語学習で直ったりしませんかね。おそらく三日坊主になるでしょうが。
 そう、とにかく私たちは目の前に迫り来る「20」の数字に怯えていたのでした。信じられない感情のほうが大きかったかもしれません。怖かった。きっと一生「大人」にはなれないのに「成人」してしまう。そして「大人」になりたくなかった。「大人」になる。それは自分自身の死のかたちであるようにも感じました。
 「成人前にきっと死んでやる」と何度も通話で啖呵を切りました。「きっとそうしろな」と共感を示したうえで、成人式を迎えてしまった私に開口一番「なんだ、お前死ななかったんか。なんで死ななかった?」と身内のフォロワーが問うてくれたのはかなり嬉しかったです。なんで死ななかった? それは私が最も言いたくて、言われたかった言葉だから。死に損ないのWACK野郎。口だけの臆病者。ファッションメンヘラみたいだな。さあ、首を吊れ! するすると自罰感情が出てきます。
 私の頭の中には18歳の私がいて、じっと私を見つめている。膝丈のプリーツスカートを握って、責めるような憐れむような、嘲るような眼差しで。
 ともあれ20歳になっても私の人生は続いてしまい、今でも自分の歳を確かめるたび驚きます。前にアルバイト先の女の子に誕生日を教え、「じゃあn(任意の年齢の数字)ですね」と返されたときに本当に理解出来ず、「何が?」と言ってしまったことがありました。時間だけが止まったままです。セルフでループものをやっているらしい。
 あの頃は本当に20歳より先の人生があるなんて思ってもいなくて、ただ暗闇が広がっていて、まっすぐ進めば足場がなくてスーパーマリオのごとく軽快に死ぬと疑わなかった。それも若さというやつなのか。
 それでは今は教訓を活かし、日々の生活をやっている……かといえばそうではなく、やはり「30歳でくたばりてえ〜」とほざいています。どんなに怒られようと、これが私の本音です。だって怖いじゃないですか。
 もしも企業に入ってしまえば厚生年金を10年払ったということを意味するし、今だってもう既に肌のくすみとかシミとかうっすらとしたシワのようなものとかがあるし、翌日の体調に響くから安酒もがぶ飲みしづらくなって、デカい虫が近くにいたら絶叫する以外できないし、大事な書類捨てちゃうし、最近は何かしようと思っても数秒後にはさっぱり忘れちゃうし。
 これ以上加齢したらもうダメだ。本当の本当に終わりの人間になってしまう。
 こうして考えると今の私の希死念慮は昔と少しだけ違っていて、年齢を重ねたことによる副次的な作用である老化を恐れる気持ちが強くなっているのですね(これはフォロワーのツイートを見てなるほどと思ったことですが)。
 30歳より先の私が生きているビジョンが浮かぶか。母親に聞いてみました。答えはノー。正直に言ってくれるところは好ましいです。だって私にも見えない。Life goes on,なんてフレーズは耳に馴染んでいるものの、それが意味するところを受け入れるのはまだ難しいなと思います。
 もしも30歳が訪れたら私の中にはまたひとり私が格納されて、馬鹿にした目を向けるのでしょうか。私自身に後ろ指を指されながら、子どもの私の自我と重たい足を引きずって息を喘がせるのでしょうか。想像するとすごく怖いです。
 ロックバンドを組んでいたらよかったな。唐突な考えが湧き起こります。人生27で死ねるならとか、やっぱり25を過ぎても生きていたいとか、そんなことを思って歌を歌いたい。
 こうやって希死念慮の遷移をぶちまけてみましたが「生きるの辞めたいな〜」という感情はびくともしません。生命力の強いダンデライオンみたいな希死念慮。ただ今の私が知っているのは、首を括るのは案外上手くいかないってことと、身辺整理と死後の手続きには滅茶苦茶なエネルギーがいるってことだけです。本当にあれ大変ですね。死ぬためにはもっともっとパワフルでエネルギッシュな希死念慮を丹精込めて育てる必要があるのかもしれません……。

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