2020年4月30日(木)

私の中に、「もう一人の私」がいる感じがする。彼はあれこれと小言を言う。置きっぱなしにした靴下を見て、気に留めずに去ろうとする私に「もっていけ」と言う。洗い物が終わったシンクに、たった一つコップを置き去りにしようとすると「あらえ」と言う。

うるさいと思いながらも従う私。彼は普段はどこにもいない。何か少し、後ろめたい気持ちになると、そこにあらわれる。

自分の意思で作り出しているのだろうか。と考えて、彼は自由意志そのものではないかとはじめは想像した。

しかし、彼は自分の行動を誰かに決めてほしいという、私の潜在的な意識がつくりだしたディレクターと考えるほうが腹落ちがする。彼は私という作品を指示する、映画監督なのだろうか。いつまでたっても心は、親のうしろを歩く子ガモのようで嫌になる。

無意識とはどこにあるのだろう。

ベンジャミン・リベットは意思が無意識的な脳の状態および過程によって生み出されるもの、つまり自由意志とは無意識から生じると述べた。

逆方向に言えば、今こうしてnoteを書いているという行動は、日記を書かなければいけないという意思から生まれ、その意思は私の無意識が生み出したものかもしれない。

そう考えると、奇妙だ。(と書いていることも無意識から生まれているのかもしれない)