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徒然草 クリエイティブ、という重み

クリエイティブという言葉が、好きだし、恐ろしい。


クリエイティブってなに?って問われたときに、コンプレックスが花開く。「手に職のある者が、口にできるもの」だと思っているから。

だけれど、広告関係の仕事にいると馴染みのありすぎる言葉で、尊敬している分、扱うのがとても怖い。そう容易く言えない、だけど、空中戦で会話をする時にはわたしにも役立つ言葉になる時もある。

クリエイティブ、を初めて聴いたのは、叔父さんの家。まさにクリエイティブディレクターなるものをしていて、且つアートディレクターであったから、小さい頃にお家に出向くと、そこらじゅう、自身の描いた作品ばかり。立体造形が好きだったのもあって、何もない壁が飛び出す絵本のような、家なのに家ではない家だった。

実家に帰れば、建設関係のお父さんが、実家をスチルで切り刻んだ、縮小模型がある。これが大好きで、みてるだけでワクワクして、これが覗き見に近しいのではと気付くのは、別の話にしよう(犯罪的なことではもちろんない)

初めて出会った叔父さんがつくった立体模型、お父さんが作った家の縮小模型、どちらも手を使った最終形態だ。わたしはこれを、クリエイティブと呼んだ。

だけど。コミュニケーション業界には、クリエイティブを口にする場面がたくさんある。けど、少しばかり過去の自分の感動と劣等感を踏まえて口にしていることを、何のためか、ここで吐き出したい。


「クリエイティブ…」と歯切れ悪く話してしまうことも、「クリエイティブいけてない!」と強く話すことも正直ある。それは、たまたま自分の身内がそういう人たちであり、わたしが「受け手」として大感動したり大好きな表現であり、一方、死ぬほど嫉妬してる。

クリエイティブ、って言葉は、尊敬でしかないし、好きだし、

だけど恐れ多い という気持ちがわたしを真っ黒にする時もある。

写真:お父さんが作った家の模型

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