【小説】嘘75
「あんたもいい人ができたのかい?」
おばあちゃんの思いがけない一言に、私は一瞬頭に空白ができてしまった。
コレは、儀式みたいなものだ。おでかけする際、たいていは居間にいるおばあちゃんに、「今日はどう?」と言ってその場でクルリと一回りして服装の感想を求めるのだ。
『またそれかい』が一番多く、『派手な色だね』とか『花柄が子供っぽい』とか『帽子が似合ってない』だのと辛辣なことしか言われず、いつも笑って言い訳する、儀式なのだ。
一度、『化粧ヘタだね。かわいくない』と言われたときは、素直に凹んでしまい、出かけるのを躊躇したこともあった。
スカートは何と合わせても不評なせいか、今では一枚も所有していない。
今日もコートを片手にぐるりと回った。ブルーのセーターにブラウンチェックのワイドパンツ。何気ないいつもの儀式。なのにいつもの感想が返ってこなかった。意表を突かれ、返す言葉を見失ってしまったのだ。
「どんな人だい?」
どことなく笑顔だ。
兄はとっくの昔に結婚してもう子供が二人いるし、妹は去年結婚した。残った私にもついにその兆しが――
「違うわよアキちゃんと映画に行くのよ」
言い終わってからやたらと早口になってしまっていたことに気づく。
「なんだい」
笑顔になった瞬間に引っ込んだ、そんな感じだった。
「アレもまだ一人モンだろ?」
「うん。でもアキちゃん彼氏はいるわよ」
「だったら誰かいい人紹介してもらったらいいじゃないか」
「なによそれ?」
「バカだね、まだ引きずってんのかい。だったらなんで一緒にならなかったんだよ」
「そんなんじゃないわよ」
「だったらいいじゃないかい。頼みにくいんなら私から頼んであげようか?」
「やめて、絶対やめてよね」
キツい目に言った、そうしておかないと本当に頼みかねない。アキちゃんはおばあちゃんがよく行くスーパーで働いていて、毎度のごとく顔を合わせているのだ。
「私、別に引きずってなんかないからね」
そう言っても、私のことなんか興味をなくしたようで携帯電話に視線を戻して返事はなかった。
私には、結婚しそうな人がいた。
もう三年も前の話だ。
その人とは七年と三ヶ月半付き合った。
この人と結婚するんだろう、とは思っていた。
向こうもそう思っていた、だから求婚してきたのだ。
ただ、いざそうなった時――県外に転勤が決まり、『一緒に来て欲しい』と言われた時、私はすんなりと『はい』と言えなかったのだ。
自分でも、上手く説明できない。
タイミングが悪かったと言えばそれまでだ。なぜなら父が大腸ガンで入院していたのだ。
さいわい早期発見で、今のところ再発もしていない。
正直、それどころではなかった感はある。
なぜか即答できなかったことで、どうして即答できなかったのかと考えている内に、『この人じゃないんじゃないだろうか?』という考えが芽生えてきて、今に至っているのだ。
この話は、我が家ではなんとなくタブーだった。
彼は家にもよく来ていて、父と兄と三人で飲みに行ったこともあったほどだ。
彼と別れたことを家族の皆に言ったとき、誰もなにも聞かなかった。その瞬間から、この家で、私に彼の話をすることはなくなってしまった。
それが、思いがけない一言経由であっさりと出てきたのだ。
心臓が激しく脈を打つ。
きっと、ビックリしたのだ。
そうだ、きっとそれだけだ。
「ちょっと」
意味も無く突っ立ているだけなので、出て行こうとしたら呼び止められた。
「なによ?」
「これ、ちっちゃい丸ってどうやって打つんだい?」
おばあちゃんは携帯電話を指さしていた
「なに? おばあちゃんメール打ってるの?」
「そうだよ」
メールなんか打てたのか、意外だ。
句読点のことだろうか? それとも濁音とこだろうか? いや、濁点はたとえて言ったら『ば』のテンテンのことか。『ぱ』の丸のことはなんと言ったっけ?
「やだよこの子。覗くんじゃないよ」
携帯電話の画面を覗こうとすると隠された。
「なによ、見ないとわからないじゃない」
「じゃあいいわよ」
シッシと手で払われた。
「まの下のボタンじゃない?」
合っていたのか間違っていたのかわからないけれど、少しニヤリとしたので多分合っていたのだろう。
「誰に送るメール?」
文面を覗かれたくないとは、よっぽと重要なのだろう。
「私はアンタと違うのよ」
「何よそれ?」
返事はなかった。おばあちゃんの視線も興味もこっちにむかないので、今度こそ出かけるために居間を出た――ところで頭をかすめた。
「おばあちゃん……彼氏できた?」
返事は満面の笑みだった。
「何よそれ?」
「アンタと違うって言っただろ」
勝ち誇っているかのように見えた。
『あんたもいい人ができたのかい?』あの『も』は、兄と妹に続いてあんたも、じゃなくって、私に続いてあんたも、という意味だったのか。
「えっ、ウソ、誰、誰、誰、誰?」
「パートでね、一緒の班の人」
おばあちゃんは先月だか先々月だかから、週に一回、市役所の掃除の仕事をしている。
「どんな人? どんな人? 写真とかないの?」
「撮り方がわかんない」
「何のために携帯電話もってるのよ」
「こんなの掛けれて出れたらそれでいいだろ」
「そんなこと言ってるからメールも打てないのよ」
ふん、と鼻で笑われた。
「じゃあ今度会わせてよ」
「いいけど……ひとつ内緒にしといてよ」
「なに?」
おじいちゃんが亡くなったのは私が生まれる前で、顔も遺影でしか知らない。今更その辺りに問題もないだろう。
「私、七十だからね、それだけは内緒」
「は?」
「だから、私は七十だからね」
言葉の意図を脳内で咀嚼する。
「サバ、読んだの?」
「だって若く見られたいじゃない」
正直、おばあちゃんの正確な年齢は知らない。ただ、なんとなくで正解しただけだ。
「ふふ」
「なのよこの子」
「だって、ふふん」
笑いというよりニヤつきが止まらない。
「だってしょうがないだろ?歳上なんて嫌だろ?」
「それは人によ……」
その時、ポケットのスマートフォンがピロンと鳴った。見るまでもない、アキちゃんからの催促だ。
「黙っとくから、会わせてよ。せめて写真だけでも」
「はいはい」
玄関先で靴を履いてコートを着ながらふとおばあちゃんを見た。
老眼鏡を掛けて、画面に集中している姿は、ちょっぴりかわいかった。
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