「1、2、3、ドン」

 エイサーを始めて十数年がたった。その間、地元の老人ホームの慰問や「博多どんたく港まつり」「長崎ランタンフェスティバル」などの九州各地のイベント、エイサーに携わる者の憧れの舞台である「沖縄全島エイサー祭り」に参加するなど、多くの貴重な経験をしてきた。エイサー太鼓の打ち手は、体躯のいい若い男性というイメージがあるが、僕は上背こそ180cmあるものの、重さが5キロある太鼓を持って踊れば、すぐに倒れてしまいそうなほどやせていて、エイサーのイメージからはほど遠い。それが不思議なことに曲がりなりにも十数年も続け、様々な経験をすることになった。こんなに長く続くとは、自分でも想像にすらしていなかった。
 エイサーをはじめたきっかけは、顧客であったHに「小学校でエイサーの練習をしているから見に来ないか」と誘われたことだ。エイサーは沖縄の伝統芸能で、本土でいう盆踊りだ。Hは学生時代を沖縄ですごし、創作エイサー団体の「M太鼓」(仮名)で活動していた。大学を卒業し、地元に帰って小学校の教師として働きだしてからは、エイサーから離れていたが、地元で行われた行事にM太鼓を呼んだことがきっかけで、自ら支部を立ち上げることになった。僕が練習に誘われたのは、立ち上げから数年がたち、メンバーが集まり、出演の機会も増えてきたころだった。沖縄とエイサーのことが大好きなHは、若い人と知り合うと手当たり次第に声を掛け、メンバーを増やそうとしていた。当時20代半ばであった僕はその恰好のターゲットだった。
 僕はそれまで沖縄に行ったことがなく、エイサーにも興味がなかった。エイサーはもちろん、ダンスや太鼓の経験すらなかったので、断りたかったが、顧客からの誘いであったため、しぶしぶ見学に行くことにした。練習は小学校のプレイルームで行われていた。メンバーたちは、馴染みのない沖縄の音楽に合わせて練習していた。太鼓を持たず、バチのみを握って練習していて、面白いものではなかった。十数名が練習していて、小学生に短大生、中年と思われる人もいた。少しだけ見学して帰ろうと考えていたら、一人の女性から「やってみようよ。楽しいよ。」と声を掛けられた。断ることが苦手な僕は、バチを持たされ、いつの間にか練習の輪に加わっていた。
 最初は、沖縄の音楽独特のリズムと「バチ回し」と言われる動作に苦労した。エイサーのバチは、和太鼓と異なり1本のみだ。右手にバチを握り、耳の横、頭の後ろとバチを運び、肩にかけて太鼓を叩くのだが、これが想像以上に難しい。力を抜いてバチを握るのがコツなのだが、自然と力が入ってしまい、バチが斜めになったり、頭からバチが離れ、旋回のスピードが落ちて、太鼓を叩くタイミングがずれたりする。太鼓の叩き方も独特で、バチが二の腕と直角になるように握り、手首を返して叩くのだが、意識を集中しないと、いつも間にかバチと二の腕の角度が開き、叩く方向も縦向きになる。これだと、バチが太鼓の面に当たらない。
 手の動きができるようになると、「足上げ」という動きが加わる。足を伸ばしたまま腰の高さくらいまで交互に上げ、地面に付くタイミングで太鼓を叩く。足を上げ続ける体力が必要だ。足に注意が行くと、 バチが疎かになり頭から離れてしまう。バチ回しは、M太鼓の基本中の基本で、これができるようにならないと次のステップに進めない。先輩のメンバー達は、軽やかにバチを操っていて、まるで魔法使いのようだった。
 僕はこの基本練習を小さな子供たちと一緒に練習をした。そのころは幼稚園児から小学校低学年の男女10名程度が加入した時期で、練習は小さな子に合わせ、「1、2、3、ドン」のペースでゆっくりと進んでいた。「1」が、耳の横、「2」が肩、「3」で構え、手首を返して「ドン」と太鼓を叩く。小学校の教師らしいH式の練習だ。最初は太鼓を持たず、バチだけで同じ動きを何度も繰り返す。単調で正直なところ、まったく楽しくない。「一体自分は何をやっているんだろう」となんだか情けない気分になった。時計を何度も確認するが、なかなか針が進まなかった。メンバーに知り合いもおらず、子供が苦手な僕は、すぐにでもやめたかったが、それを言い出す勇気すらなかった。
 それでもなぜか、練習にはかかさず参加した。練習は水曜日と土曜日の週2回、それぞれ2時間程度であった。水曜日は仕事が終わったあとに参加する。午後9時に練習が終わり、車で45分の道のりを帰宅する。土曜日は往復90分掛けて練習に参加した。その後、この週2回の練習を10年以上続けている。
 バチ回しが何とかできるようになって、振付を覚える段階になっても、練習はちっとも楽しくならなかった。運動神経がなく、ダンスの経験ものない僕は、まったく振りを覚えることができなかった。曲は、独特のリズムで聞いたことがない。バチ回しも崩れ、あやつり人形みたいな動きになる。
 そんな状況に変化が訪れたのは、自主練習を始めたからであった。インターネットで動画を確認し、できない箇所を確認する。自分のペースで、動きを確認することで、少しずつコツと独特の動きを覚えることができるようになった。自主練習で少しずつ振りを覚えることができるようになると、支部での練習が楽しくなってきた。どこの動きができて、どこの動きができていないかわかるようになり、上達もすすむ。間違えると悔しいが、その悔しさをバネに頑張ることができる。次第に技術も向上し、無事にイベントでの出演を果たすことができた。
 その後、しばらくして他の支部のメンバーと合同練習することになった。それまで、自分たちの支部の中だけで練習しか知らなかった僕は衝撃を受けた。他支部のメンバーは、10代、20代が中心で、エネルギーに満ち溢れていた。まず、フェーシという演舞中の掛け声に圧倒された。「イーヤーサーサー」「ハーイーヤー」などと声を張り上げ、自らを鼓舞する。僕らの支部でもフェーシを出すよう言われていたが、彼らのそれと比べると蚊の鳴くような声であった。そして、太鼓の叩き方がまるっきり違った。素早く、力強い叩き方なのにもかかわらず、バチの軌道はふわっとしているのだ。自分の叩き方とどこが違うのかさえ分からなかった。その練習で僕たちは多くのことをを吸収した。エイサーの技術はもちろん、礼儀やマナーの大切さも学んだ。その後九州地区のイベントに参加するきっかけになった。
 しかし、もし僕が若いのメンバーが中心でレベルの支部の練習に誘われていたら、僕はエイサーを続けられないように思う。ダンスや太鼓の経験がない僕には、小さな子供たちとゆっくり、丁寧な指導を受けたからこそエイサーを続けられたのだ。
 支部の設立から15年以上が経過し、メンバーの数は、50名を超えた。入れ替わりもあるが、他の支部のメンバーが入部するなど、支部のレベルもずいぶん上がった。10数年前いっしょに基本練習をしていた子供たちは、社会人や大学生になり、支部を巣立ったものもいれば、中心メンバーとなって活躍しているメンバーもいる。
 指導を受ける側だった僕も指導する立場になった。毎年4月になると新しいメンバーが加入してくる。そして、Hから教わったように「1、2、3、ドン」でバチ回しを教えている。

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