初めてBUMPのライブに行ってみて思う事

BUMP OF CHICKENに出会ったのは小学6年の時。
"楽曲を聴いて心が動く"ということを初めて体験し、あっという間に魅了された。

それからの10数年間、私はBUMPを愛し、共に生きてきた。
好きな歌手を尋ねられて、BUMP以外の名前を一番に挙げたことはないし、誰のどんな楽曲を聴いても、BUMPを聴いた時の衝撃を超えることはなかった。人生のあらゆる瞬間において、BUMPの唄がすぐ傍にあった。

でも、私のBUMPの愛し方は、他の人達と比べて少し違う。
"あるバンドが好き"という場合、その編成メンバーから発信されるあらゆる情報を受信したがるのが普通だと思う。リリースされる楽曲を聴くのはもちろん、ライブに応募したり、出演するメディアをチェックしたり、グッズを集めたり。それは偏に、"そのバンドそのものが好き"であるからだろう。
私は、"BUMPの楽曲が大好き"だ。もっと言えば、"藤原基央が作った唄が4人による演奏として収録されているリリース音源が、他の追随を許さないほどに好き"だ。
逆に、それ以外の情報に対してまるで興味を持てない。ラジオも聞かないし、MVもそんなに見ない。数年前に不祥事を起こしたのがどのメンバーなのかも知らない。
当然、ライブにも興味がなかった。リリース音源よりもクオリティが低いから。お金や労力をかけなくたって、BUMPの唄はいつでも聴ける。生で見れる訳でもないライブ映像なんてもってのほか。

そんな訳で、10数年間BUMPを愛しながら、ライブとは縁がない生活を送っていた。しかし、数か月前、ペアチケットを当てた友人に付いていくという形でbe thereに参加することに。
興味がなかったというだけで、わざわざ誘われればそりゃ行ってみたい。生でBUMPが見られるというありきたりな高揚感に包まれながら、ちょっとしたモヤモヤもあった。それは、"これまでの愛し方を否定されてしまったらどうしよう"という不安。
これまで真摯に、硬派にリリース音源と向き合ってきたのは、それがBUMPを愛する上での美徳だと考えていたから。でも、目の前で歌うBUMPに心を打たれたら、"BUMP OF CHICKENそのものに興味を向けなかったこと"を後悔してしまうかもしれない。自分なりの美徳が否定されてしまったら…。

そんなこんなで幕は開く。アカシアのイントロで沸いた会場に、満を持して4人が登場。最近のシングル曲と、知名度を問わない昔の曲が交互に演奏されていった。66号線、fire sign、サザンクロス…私が愛してやまない楽曲達も。
やっぱり、感動した。会場の熱気にあてられたのもあるが、66号線を唄っている藤原基央を見ながら、"ああ、今まで俺が擦り切れるほど聴いたあの楽曲達を作って唄にしたのは、この人だったんだ"と思い、心を打たれていた。まるで、神に初めて出会った信仰者のように。(私にとってBUMPの楽曲はバイブルみたいなものだから、あながち間違いでもない)

ただ。それでも。
やっぱり私は、BUMPの楽曲が好きだ。
藤原基央の歌声を生で聴いている時間は至福だったけど。会場にいる全員がBUMPを応援しているという一体感に胸は熱くなったけど。
ライブで得られる幸せは、ライブだけのもの。祭りが終われば儚く消えて、思い出しか残らない。そしてそれは、今までBUMPの唄と一緒に生きてきた10数年間には、遠く及ばなかった。

私はこれからも、今まで通りBUMPを愛していく。
喜びに包まれていても、悲しみに暮れていても、BUMPの唄が傍にいてくれる。BUMPと一緒に人生を歩んでいける。
これだけでいい。この幸せを噛みしめる事こそが、BUMPを愛する上での、私なりの美徳なのだ。

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