窓の中から

私は、BUMP OF CHICKENが好きだ。
出会ってから10数年間、BUMPと共に人生を歩んできた。

しかし、私なりのBUMPの愛し方を、誰かと共有できることはほとんどない。
私は、"COSMONAUTまでの楽曲を神格化してしまっている"。もっと野蛮な言い方をすると、"Butterflies以降の楽曲はBUMPだと認めていない"。

BUMPは変わった。
もちろん、歌手である以前に人間なのだから、変化するのは当然である。そして、COSMONAUT以前から、ずっと変化と成長を続けてきたのも理解している。
それでも私は、Hello, world!を聴いた時、"これは俺の知っているBUMPじゃない"と感じてしまった。

私がBUMPを知ったのは2011~12年辺りなので、RAYがリリースされるまでの数年間は、FLAME VEINからCOSMONAUTまでが、私にとってBUMPの全てだった(もちろん、その間リリースされたシングルも聴いてはいたが)。
その間に、私のBUMP観は完全に固まってしまった。
どんなリズムであっても、置いていかず寄り添ってくれる硬派なメロディーに、藤原の想いの丈が込められた起承転結が乗せられる。それが私にとってのBUMPの全てだ。
"若さゆえの勢い"とか"粗削りなのが良い味"とか、そんな軽いものじゃない。メロディーと歌詞から滲み出る硬派さと藤原の想いが、COSMONAUTまでのBUMPの楽曲には確かにあった。

RAYまではまだよかった。自分のBUMP観から逸脱していくのは敏感に感じ取っていたが、"変化するのは当然で、これが彼らにとっての成長なのだ"と受け入れられていたと思う。
しかし、物凄いスピードで彼らは遠ざかって行った。
アップダウンが激しいメロディーに付いていけず、なぜかサビの音域がザラザラとして心地悪いと感じる。歌詞の輪郭が掴めなくなっていき、些細なワードチョイスに違和感を覚える。
ある時から、自分が好きだったBUMPはもういないのだと悟り、新曲をほとんど聴かなくなった。

BUMPは変化を止めなかった。
やがて(私にとっての)暗黒期を抜け、新しいスタイルを確立した。話がしたいよやアカシアをはじめとして、2018年以降は良い曲が増えた。
進化を続ける姿勢と、新しい層からの支持を着実に集めていくコミットは本当に素晴らしいと思う。
でも、私の中では"良い曲"を抜け出せない。胸に響かない。どんなに良い曲も、ロストマンには、涙のふるさとには、fire signには遠く及ばない。新曲を聴くたび、やっぱりあの時のBUMPとは違うのだという諦めと、BUMPの成長を素直に喜べない虚しさを強く感じていた。

しかし、窓の中からは違った。
響いた。もっと聴きたいと思った。辛い時、嬉しい時、感情が揺さぶられている時に、隣にいてほしいと思った。
本当に久しぶりの感覚だった。

私は、窓の中からに、かつての硬派さと想いを感じた。"BUMPが好きな人への唄"ではなく、"BUMPだけを愛し続ける人のための唄"なのだと直感的に思った。

ずっと感じてきたBUMPの新曲への違和感は、疎外感だったのだと考える。ある曲を、あらゆる人に向けて創るのは不可能で、必ずターゲットが存在する。藤原基央は天才だから、一曲一曲に意味を持たせられてしまう。そして、その曲が自分に向けられたものなのか、私は無意識にジャッジしていたのだろう。リアルでのコミュニケーションで、相手の言動が自分を想ってのものなのか、なんとなく分かるように。

ライトに楽しくBUMPを聴く人、タイアップ作品を通じてBUMPに触れる人、あるいはBUMP自身。色んな人に向けて曲を届けなければならない彼らにとって、"BUMPだけを愛し続ける人"というのは、決して大部分を占めてはいない。ここ暫くは、私たちに向けた曲を作る暇がなかった。きっとそれだけの話。
でも、私はずっと寂しかった。こっちを見てほしかった。
だから、本当に嬉しかった。単なる独白ではなく、語りかけてもらえたのが。"お前の全てを叫んでみろよ。その気になれば宇宙くらい震えさせられんだろ?"と言ってもらえたのが。ずっと待っていたのは、たぶん私だけではないはず。

おかえり。
宝物が一つ増えた。
またすぐに、なんて言わない。何年かかってもいいから、いつかもう一度、こんな唄を作ってほしい。

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